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鶴屋さん「キョンくんっ、愛してるよっ!」 6
時間が推していますが六時半~七時の間に再開したいと思います。
若干煽りが入らないか不安ではありますが気にせずに行きましょう
それでは準備が出来次第またノシ
さて、それではぼちぼち再開したいと思います。
前回トリップを思いっきり
つけ忘れてしまったのですがまぁなんとかなるでしょう。
それでは続きを始めたいと思います。
最後までお付き合いいただけるとこれ以上のことはありません。
基本sage進行で、思い出したときにageていきます。
11 名前:38-1[] 投稿日:2010/03/19(金) 18:57:46.43 ID:imSbaqCO0
日が傾いているせいで窓の冊子や光の加減によって
俺の顔にだけ黒い影が張り付いていた。
さながら映画の悪役のようである。
あいつらからは俺の目の光だけが見えているって寸法か?
これはますます犯人染みてきた。
哀れな怪人と化した探偵の、その哀れな末路を看取ってくれるのは
どうやらこいつらだけらしい。このまま消え去ってしまいたかったが、
そんなことは土台無理な話なので俺はただそこにたたずんでいる他なかった。
誰も何も言わない。
俺も、ハルヒも、長門も、朝比奈さんも、古泉も誰も何も言わなかった。
ただ互いの腹のうちを探り合うように、時間だけが過ぎ去っていった。
そうしているうちにいい加減疲れ切っていた俺は
何を言うでもなく連中とは反対方向へと歩き出した。
数歩歩いたところで背後から朝比奈さんの声がした。
俺を呼びとめるその声が。それでも俺に立ち止まる気はなかった。
そのまま歩き去ろうとする俺に朝比奈さんは尚も言葉をかける。
みくる「キョンくん……鶴屋さんが、これを校庭に置いて行ったのっ、
キョンくんへって、書き置きが添えられてたの、だから、
だからせめてこれだけは受け取ってあげて、キョンくん!」
そう叫ぶ朝比奈さんの声は悲痛に満ちていた。
叫び慣れていない朝比奈さんのかすれるような声とその言葉の意味するところに
思い当たった俺は脚を止め振り返った。
12 名前:38-2[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:00:12.69 ID:imSbaqCO0
朝比奈さんは今にも泣き出しそうな顔で俺を見ながら、
その手に例の置き時計を抱えていた。
例の趣味の悪いパチもんくさい置き時計である。
あれは俺が鶴屋さんに買ってあげた、というか無理やり買わされた時計である。
その時計が捨てられたということはすなわち、
鶴屋さんはもう俺との関係を打ち切るつもりなのか。俺はそんな風に感じた。
どうやら鶴屋さんは俺と過ごした時間をすっぱりきっぱりと忘れるつもりらしい。
そして、今まで通り、日々を過ごすことに決めたようだ。
俺のいない時間を過ごすことに決めたようだ。
結局、最初から無理だったのか。
俺が鶴屋さんの隣に立つなんて。共に未来を過ごすことなんて。
最初から無理だったんだな。
キョン「それ……いりませんから……処分しといてください……
お手数おかけしてすいません……朝比奈さん……」
朝比奈さんはすがるように俺を見て言う。
みくる「え、で、でも、これは鶴屋さんが、あなたにって……」
キョン「いりません。捨ててください」
朝比奈さんはしゅんとして押し黙りそれ以上俺に声をかけることはなかった。
これ以上ここですることはない。そう判断して俺は再び歩き始めた。
13 名前:38-3[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 19:04:53.68 ID:imSbaqCO0
背後からハルヒが俺に向かって叫ぶ声が聞こえた。
ハルヒ「ちょっと、みくるちゃんが持ってけって言ってんだから
持っていきなさいよ! ちょっと、キョン!」
そういって何度も俺のあだ名を叫んだ。
怪人キョン、なんともしまらない名前だな。
これじゃぁどっかの物珍しい草食動物みたいじゃないか。
これが怪盗とかならまだ、いや、関係ないか。
怪傑ってのもいいが、生憎俺は悪役だ。
そんなバカみたいなことを考えていると
ハルヒの呼び声に混じって古泉が俺に語りかけてきた。
古泉「やれやれ、困ったものですね。
これだけ皆さんに迷惑をかけておいて無視して帰るなんて、
男らしくありませんね。まったく、とんだ腰抜けですよあなたは」
うるせぇ古泉。その挑発には乗らんし、男らしくないことは今に始まったことじゃない。
とにかく今は誰とも関わり合いたくないんだよ。俺のことなんか放っておいてくれ。
お前に返す言葉なんて初めから持ち合わせちゃいないんだ。
古泉の言葉に胸中悪態を吐きながら俺は振り返らずに歩き続けた。
それでも古泉は俺への非難をやめないとしない。
いい加減に腹が立ってきたが、今さら振り返る気も起きなかった。
古泉「どうして逃げるんですか。谷口さんを殴り飛ばしたからですか?
鶴屋さんに逃げられたからですか? あなたは何に怒っているんですか?
そもそも誰かに怒る資格があなたにはあるんですか?」
14 名前:38-4[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:11:22.16 ID:imSbaqCO0
んなもんねーよ、ねーから俺はさっきまでこっぴどく叱られてたんだ。
そしてこれから正にその代償を払うんだ。
これ以上俺の傷口を広げるような真似はやめてくれ。頼むからよ。
古泉「まったく、あなたという人には失望しました。
これまであなたを信じて見守ってきた僕たちに
失礼だと思わないんですか?
あなたは本当に馬鹿ですね。馬鹿な人です。
どうしようもないくらい残念な子です」
畜生、腹が立つ、やっぱりこいつには腹が立つ。
一回くらい決着をつけておいてもいいかもしれないが、
腕っ節がいつものゲームの結果と違うのは目に見えている気がした。
一回ぐらいはこいつを殴りつけてやりたい。
だがそれでも振り返ってやらん。絶対に、絶対にだ。
もうこれ以上は、これ以上は何もしたくないし、されたくもない。
誰にも、誰とも関わり合いたくないんだ────。
古泉「やれやれ、あなたもまったくしょうがない人ですね。
そんなあなただから、鶴屋さんにも逃げられてしまうのでは?」
その一言で俺は立ち止まった。
キョン「なんだと……?」
その言葉はまさに事実だった。少なくとも俺にはそう思えた。
その事実に胸をえぐられて俺は脚を止めてしまった。
したり顔で微笑む古泉の顔が思い浮かぶ。畜生、また、俺は、自分で────
15 名前:38-5[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 19:16:59.48 ID:imSbaqCO0
古泉「あなた、”おつむ詰まってますか?”」
その一言にはっとして俺は思わず振り返った。
視線の先にいる古泉の表情は俺が想像した通りのニヤケ面だった。
しかしそれは挑発に成功したからというわけではなく、
本当に俺を見守っているような穏やかなものだった。
呆気にとられて体から力が抜けてしまう。
なんだ、聞き覚えがあるぞ。今の言葉は、確か、確か────
古泉「どうですか、涼宮さん。この僕の紅色の脳細胞にかかれば、
彼を引きとめることなど造作もないのです」
ハルヒ「さすがね、褒めてつかわすわ。
そしてどうやら、あっちにも話をする準備はできたようね」
そう言って堂々と胸の前で腕を組んだハルヒの浮かべる笑みは
いつもの何倍も迫力溢れるものだった。
気迫と言ってもいい、それほどの凄味を感じさせていた。
俺は思わずサスペンスの三流悪役のようにたじろいでしまった。
そのリアクションを見て大いに満足したハルヒは朝比奈さんの手から
置き時計を取り上げると大きく振りかぶり力の限りおれに投げつけてきた。
あんまり強く投げるもんだから危うく受け取り損ねるところだった。
こんな安モン、落としたらバラバラに砕けて大変なことになるだろうに。
そんなことにも構わずにハルヒは銃を構えるような仕草で人差し指を俺に向ける。
16 名前:38-6[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:22:03.65 ID:imSbaqCO0
ハルヒ「あんたが何するつもりなのかはわかんないけど、
中途半端に終わらせたら承知しないんだからね!
その時はあたしがブローニング片手に学校中を追い回して
蜂の巣にしてあげるわ! 覚悟しときなさい!」
ハルヒがとんでもない事を言う。
だからブローニングはシーズン6の16話に一回使ったきりだっつーに!
ってこのツッコミも前にもしたことがあるような……そんな気がする。
終業式の日、春休みの前日に。SOS団の部室でした会話にそんなやりとりがあった。
こいつら、覚えているのか。まさか、覚えているっていうのか?
それははっきりとはわからなかったが、それでもそこには、
あの探偵ごっこをやっていたあいつらの変わらない姿がそこにある気がした。
たとえ時間の輪が閉じても変わらない、バカみたいなあいつらがそこにいるような感覚が。
それだけはまったく、これっぽっちも、変わることがないと強く主張するように。
自分たちの存在を示していた。
消えてしまった過去の、閉じ込められてしまった過去のその向こう側から。
確かに聞こえた気がした。
こいつらのバカ騒ぎが、喧騒模様が、そして、続いていく日々の宴が。
長門が突然カバンの中からもじゃもじゃのカツラを取り出しおもむろに頭に装着して言い放つ。
長門「新シリーズは……近い────」
長門の目が力強くキラリと光った。マジか、それマジなのか長門、
信じていいんだな? 信じていいんだよな、長門さん!?
17 名前:38-7[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 19:25:51.27 ID:imSbaqCO0
長門は俺の言葉に小さくコクンと頷いた。
ってなんでお前にそんなことがわかるんだよっ!とはツッコミきれないままに
長門が放った「我々がそうする」という言葉に内心ドン引きしながらも
楽しみにしているようなその表情に何も言い返すことができなかった。
海外ドラマが延々とシーズンまたぎで作り続けられる秘密がそこにはあったのかもしれない。
だがそんな秘密を掘り起こす気は俺にはまったくこれっぽっちもなく、
エリア51にグレイ型の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースが
いるかどうかなんて考えたくもなかった。
どうも長門の方は微妙に覚えているみたいだった。
さすがというかなんというか、
8月に夏休みを繰り返した時も一周欠かさず覚えていた長門なら不思議はないのか。
というよりもあの法令線とカツラにかける情熱が時間の壁を突破したのだと思う方が
俺的にはしっくりくるのだが。どうなんだろう。
それはちと面白おかしく考えすぎなんだろうな。うん。
若干鶴屋さんの癖が移ってしまったような自分に奇妙なおかしさを覚える。
一方朝比奈さんはというととても何かを言いたそうにしていたのだが、
ハルヒに背中をドンッと叩かれて
「さぁ、みくるちゃん、カミさんの話をしてあげなさい!」とたきつけられると
「う、うちのカミさ……え、あたし女の子なのに……カミさんなんていませんー……ふえぇ……」
となんとも痛々しい目を伏せたくなるような悲痛な表情で
一つしかないネタを繰り返しそのたびに涙を潤ませて押し黙っていたのだった。
南無阿弥陀仏、成仏してください朝比奈さん。
あなたのごこーいはほんとーに忘れませんから。ええ、もうほんとに。
18 名前:38-8[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 19:30:01.97 ID:imSbaqCO0
俺はハルヒに投げつけられた鶴屋さんが校庭に残していった置き時計に
視線を落とす。たしかにテープで紙がくっつけられていて俺への宛て名がある。
だがそれ以外には何も書かれておらず鶴屋さんの意図がさっぱり読めない。
いったいどういうことだ。また謎解きかよ。俺のありきたりな脳細胞には酷な作業だ。
そう思って置き時計を眺めているとなんだかその嫌味なデザインに腹が立ってきた。
いったいどこの馬鹿がこんなデザインを好むというのか。
あ、鶴屋さんだった。これは失敬。考えろ、考えろ俺。ううむ、うーうむ。
そうして置き時計を何度かひっくり返しているとメーカーのロゴが目に入った。
たしかこれは丸鶴デパートにあったあの時計店謹製の品だったよな。
あの店の雰囲気にまったくそぐわないこの悪意に満ちたデザインに
とてつもない違和感を感じたんだ。そう、あの店の名前を、俺は確か……。
Okey-Dokeyを、置き時計と読み間違えたんである。
そのあとOK時計とも読み間違えたな。
Okey-Dokey。
確か鶴屋さんに意味を教えてもらってたんだが、なんだっけか。忘れた。
いやいや、思い出せ、思い出せ俺。
なんかすげぇ大切で重要なことのような気がするぞ、がんばれ俺。ふぁいとっ! 俺!
主になけなしの脳細胞! よし、ピンと来た、違った、なんだっけ、思い出した! かもしれない。
そうしてようやく回答に思い至った瞬間俺の全身に電撃が走った。
正確にはそのあまりのくだらなさに驚愕しちまった。
19 名前:38-9[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:34:49.58 ID:imSbaqCO0
鶴屋さんはこれをどこに置いていったって。
確か校庭だったよな。これを校庭に置いていったんだよな。
それが本当なら、もしそうなら、これは、これはあまりにも─────────
馬鹿馬鹿しい事件だった。
置き時計のロゴ。Okey-Dokey=OK
買ってきた店の名前。OK時計、じゃなかったロゴと同じOkey-Dokey=OK
置いていった場所。校庭=肯定
そのあまりのくだらなさに俺は放心した。
あまりにもくだらないダジャレだった。
そしてそれにすぐ気付かなかった俺の脳細胞の残念さといったらなかった。
おそらく俺が一つのヒントで気づかなくても大丈夫なように
それはもう念入りにダブルトリプルミーニングで答えを用意してくれたに違いない。
つまり、このシャレのくだらなさはイコール、
俺への気遣いというか保険のようなものである。
俺がどんだけ馬鹿で阿呆で残念な子でもさすがにこれには気づくだろうという
深い深いおもんぱかりと遠謀の結果である。
それすら見過ごしかけた俺のあまりの間抜けさを自分自身でも残念に思った。
ようはフツーにOKの返事である。
鶴屋さんがなぜに逃走したのかはまだわからないが、
それでも自宅にお邪魔してもいいことにはなった。
俺の不躾と不作法とその他もろもろの下心は無駄ではなかったのだ。
20 名前:38-10[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:40:00.34 ID:imSbaqCO0
そう思うと現金なもので、
腹の底や胸の奥からふつふつと力がわいてくるようだった。
頬が緩むのを止められない。
怪人百面相というのもあながち間違った例えでもないのかもしれない。
きっと今の俺の表情は緩みに緩みきってだらしがないくらいなのだろうから。
顔を上げて連中を見るとあいつらも俺に負けないくらい嬉しそうに笑っていた。
ハルヒ「谷口の馬鹿にはあたしが追加で制裁を加えておくから気にせずに行ってきなさい!」
いやそれはだめだろう! おい! 謝っといてくれとは言わないがそれだけはやめてくれ頼むから!
古泉「後の処理は機関に任せてください。今あなたを失うのは、我々にとってもマイナスですから」
そう言って目いっぱい邪悪に笑う古泉。悪人くさい雰囲気すらかもしだしている。
こえーよ、お前らの組織こえーよ! ていうかいったいどこまで権力あるんだよお前ら。おい笑うな。
長門「大丈夫。それがかなわないときは私が全員逮捕する。安心して。自供を引き出すのは得意」
いやいやそれ自供じゃねーから、脅迫だから!
頼むから暴力的な手段だけは控えてくれ、マジで!
そして唯一特にすることがない朝比奈さんはしばらく周りを見回しておろおろとしていたものの、
意を決したように真剣な表情で眉根を寄せると珍しく普段より一際大きな声を上げて叫ぶ。
みくる「か、カミさんに全部やってもらいます!」
そう言って俺に向けて力強く人差し指を突きだした。
勇気と元気を目いっぱい振り絞った朝比奈さんは居もしないカミさんに何かをさせると言う。
21 名前:38-11[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 19:43:12.86 ID:imSbaqCO0
朝比奈さん、そこまで無理をしなくても……。
俺がそう思っていると組んでいた腕を崩して
朝比奈さんの隣に歩み寄ったハルヒがその背中をバシンとはたく。
ハルヒ「みくるちゃん、よくぞ言ったわ!
それでこそ刑事……なんだっけ? まぁいいわ、とにかく偉い!」
ハルヒの気合のこもった一撃に
「ふえぇ!」とたじろぎながらも朝比奈さんは恥ずかしそうに照れ笑った。
そんなハルヒと朝比奈さんを見ているとふとある疑念が浮かんだ。
朝比奈さん、まさかカミさんってのは神さんのことじゃないでしょうね。
それだけは、それだけは本当にやっちゃいけないことですから!
触らぬ神になんとやらですから! マジで洒落になりませんからっ!
触る神どころか叩いてくる神にバシバシとはたかれながら
朝比奈さんは頭をかばいつつ何度も「やめてください~」と悲鳴を上げている。
ハルヒもちょっと調子に乗り過ぎな気もするが、勇気を振り絞って
ついに配役を完遂した朝比奈さんに対するねぎらいの気持ちの表れなのだろう。
いわばこれは古泉に出したグッドサインと同じものなのだ。
それにしては過激だが、まぁハルヒなりの愛情表現のようなものだと思われた。
22 名前:38-12[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 19:46:07.96 ID:imSbaqCO0
似たような感じで鶴屋さんにバシバシとはたかれたり殴られたり蹴られたり
口の中にアイスをつっこまれたり脳天に空手チョップをくらわされたり
指に噛みつかれそうになったり舌をホールドされたり顔面を指で突かれたり
両頬をつかまれタコチューにされたりなじられたり罵られたり
無理やり押し倒されたり頭を鷲掴みにされ髪の毛をめちゃくちゃにされたり
指で無理やり眉間にシワを作られたり……多いな……
された俺としてはその気持ちは痛いほどにわかるのだった。
ついでに若干凹む気持ちも併せて。がんばれ、朝比奈さん。
思えば俺は鶴屋さんに何かをしてもらって、もといされてばかりだった。
自分からあの人に絡んだことはあったものの、
それよりも圧倒的に鶴屋さんが俺に絡んできた回数の方が多い。それがとても心残りだ。
俺があの人に、鶴屋さんに何をしてもらえるかなんてどうでもいい。
ただ俺は何かをしてあげたかった。
俺なんかにもできることがあるのなら。俺なんかを求めてくれているのなら。
あの人のもとへ駆けつけないわけにはいかなかった。
あの人が逃げるというのなら、俺は追いかけるまでだ。
そうしてずっと引き寄せられるままに。
俺は鶴屋さんのそばにずっと居たのだから。
23 名前:38-13[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:50:03.28 ID:imSbaqCO0
キョン「お前ら、ありがとよ! 恩に着るぜ、後のことは全部任せた!
っていうか俺にはできることなんて最初からないしな、だから全部、
任せたぞ! 俺はさっさと行ってくる、やり残したことを済ませてくる!」
そう言ってあいつらの返事を待つまでもなく走り出した俺の背中に、
あいつらの声援が浴びせられた。
ところどころアホだのバカだのボケだのキョンだの酷い罵詈雑言を
主にハルヒに浴びせられながら俺はカバンも取りに戻らないまま学校を出た。
脇目も振らず人気のない校庭を走り抜け校門を通り過ぎると
路肩に黒塗りのセンチュリーが停まっていた。
いつぞや鶴屋さんが乗ってきたいかがわしい高級車である。
運転席のウィンドウが音を立てて下がる。
なんだ、鶴屋家が寄こしたヒットマンでも出てこようってのか、
そいつはGか、それともバーコードか、弾道を曲げるタイプのスタン、じゃねぇ暗殺者か、
なら物影に隠れても無駄じゃないのか? マジでピンチかもしれない。
などといい加減な洋画の知識を駆使しながらなんとか生存の可能性を探っていく。
俺が本気で戦慄したのも無理はない。
窓の向こうから発される空気の異質さというか凄味と呼べる迫力を肌で感じ取ったからだ。
数多幾多の戦場と人生を駆け抜けたような
渋いダンディーさを纏ったその人物が車の窓から顔を出した。
荒川さん「どうも、お待ちしていましたよ」
……なぜに荒川さんがここに?
25 名前:38-14[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:54:34.17 ID:imSbaqCO0
しかもこれ、鶴屋さんが前に乗ってきた車でしょうに。
機関と鶴屋家は相互不可侵じゃないんですか?
荒川さん「スポンサー特権ってやつです。
株主優待のようなものだと思ってください。わりとよくあることですよ」
地味にリアルな話だった。しかもわりとよくあるんですか。意外といい加減な組織だなおい。
それともそれを頼む鶴屋家の人間がちゃらんぽらんなのか?
キョン「まさか普段からそうしてるとか……」
荒川さん「いいえ、スポンサーから依頼があればたまに、という程度です。
春休みの間に常の使用人全員に暇を与えたそうでしてね。
あなたが探しているお方のお父上に指名されまして、
私はいわば日雇いの勤めに出ていたわけです。
と言っても臨時の送迎サービスみたいなものですよ。
私は超能力者ではありませんから手が空くこともありますからね。
こうして組織に貢献するのも悪い気はしませんよ」
とするとあの日も荒川さんが運転してたってのか。
如何に優れた組織であろうと運営資金なくしては人も物も集まらないだろうし
案外こういうサービスをそこかしこでやっているのかもしれない。
そう思えば納得がいくようないかないような。とにもかくにも俺には僥倖である。
キョン「それじゃぁ、乗せて行ってもらってもかまいませんか……?」
荒川さん「もちろんです。その為にここでお待ちしていたんですからね。
もっとも、あなたが嫌がろうと無理やり連れてくるよう
厳命されていますからあなたの意思は関係ありませんが」
26 名前:38-15[] 投稿日:2010/03/19(金) 19:58:48.33 ID:imSbaqCO0
笑みをたたえながら言う荒川さんの言葉を聞いて
俺は思わずずっこけそうになった。そして背筋に寒気が這い回った。
どうやら鶴屋さんは俺が謎解きに失敗したときのことまで考えて
保険を用意しておいたらしい。たぶん、おそらくではあるが
俺と荒川さんが顔見知りなのを知っていたのかもしれないし、
単に荒川さんの腕っ節がいいと踏んだだけなのかはわからないが、
まぁいい、俺は黙ってこれに乗ればいいだけなんだから話は簡単だ。
座り心地絶妙なバックシートに腰を下ろした瞬間車が突如急加速して
明らかに法定速度を数十キロは超えた速度で走りだした。
不安は感じるが俺にできることはもちろんない。
荒川さんが大丈夫だと判断してるんだから大丈夫だろう。
そうして俺は何度も顔面を青ざめさせたりパトランプの赤に照らされて
紫色に染まりながらもなんとか無事に鶴屋家の門前までたどりつくことができた。
正直言って死ぬかと思った。
しかしそこはそれ荒川さんの運転技術が素晴らしかったおかげで
酔って吐くこともなかった。
俺を下ろした荒川さんは俺に通用口の鍵を渡すと
戦闘機のパイロットの如き堂に入ったグッドサインを作って
何も言わずに走り去って行った。
手渡された鍵を呆然と眺めつつ
一応これも鶴屋さんが用意したものなのだろうと思い
通用口を開けて扉をくぐった。
27 名前:38-16[] 投稿日:2010/03/19(金) 20:01:51.28 ID:imSbaqCO0
一応中に入ったはいいが
ここからどうすればいいのかさっぱりわからない。
その場に靴を脱いで無断で上がらせてもらった俺は
一度行ったことのある場所、春休み三日目に日向ぼっこをしたり
膝枕をされたりした縁側に足を向けた。だがそこには何もなかった。
強いて言うならどういうわけかごはん粒が一つだけ落ちていたということぐらいだ。
ごはん、ごはんか。
以前鶴屋さん手作りの昼食をご馳走になった部屋に行けってことなんだろうか。
自分の推測に自信は抱けないながらも俺は指示されたであろう部屋へと向かう。
屋敷に人の気配はなく一見して無人のようにも感じる。
果たして鶴屋さんは本当にあの部屋にいるんだろうか。
とにもかくにも行ってみないことにはな。
障子戸を開いて昼食をご馳走になった部屋を覗くも鶴屋さんはいなかった。
なんだ、違うのか。とすると台所か? ダメだ、場所がわからん。
それともあのごはん粒はただの落し物だったのか。
いや、そんなことはないと思うんだが。
そう思って部屋の中を観察していると奥のふすまが目に入った。
俺が勝手に侵入して鶴屋さんにとっちめられたあの廊下に出るふすまである。
鶴屋さんが俺をここに導いたのはつまりこの戸を通って来いということなのだろうか。
俺は部屋の奥の扉を開いて廊下に顔を出した。
そこはなんとも薄暗く不気味な感じがした。
28 名前:38-17[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:04:54.40 ID:imSbaqCO0
ところどころ障子を透き通った光が覗くものの、
日が傾いた今はその光もほとんど届かず不気味な空気が漂っている。
日本家屋のこういうところは苦手に感じる。
これだけ大きな屋敷になればなおのことだ。
俺は恐る恐る脚を踏み出しながら軋む床の音を耳障りに感じつつ
屋敷の奥へと続くT字路へとたどり着いた。
確か、俺はちょうどここで鶴屋さんに発見されて盛大に驚いたんだった。
思い出すだけで情けない、それはもう情けない探偵だった。まさに不作法探偵だ。
とはいえ今は探偵ではなくモノホンの闖入者、じゃなかった
招かれたる者なので遠慮することはない。
妖怪とか飛び出して来やしないだろうな、などと真剣に失礼なことを考えつつ
俺は奥へ奥へと足を踏み進めた。正直帰りたい、いやダメだ。
怖い、じゃないがんばれ俺。
そういえば鶴屋さんはこの廊下の向こうには奥座敷があると言っていた。
家人や使用人を遠ざけて一人になりたい時はそこに居るのだという。
その話を鶴屋さんの口から聞いたとき俺はいつかそこに招かれてみたいと思った。
今思っても不躾な話だが、それが今実現しているというのか。
つまり今この状況はあの日俺が願った通りだっていうのか。
鶴屋さんが一人で居る為の空間。そこに招かれるというのはどういうことなのか。
あの時はなんの実感もなくただそうなればいいと漠然と願っていた。
それはごく曖昧な願望だった。
29 名前:38-18[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:09:19.82 ID:imSbaqCO0
今現実となって俺の目の前に続いている道筋。
それで正解なのかどうかはわからないが、今は何も考えず進むしかない。
日の光も届かない暗がりの中を歩いていくしかない。
その先に鶴屋さんが居るのかどうかもわからない。だが進むしかないんだ。
それしか俺にはできないんだ。
あの人が俺を待っている、その僅かな可能性でもあるのなら。
足を踏み出さないわけにはいかなかった。
手で壁をなぞりつつ足元を確認しながらつまづかないよう慎重に
一歩一歩進んだ俺は廊下の先に光を見た。
ふすまの隙間から覗くごくわずかな光だった。
おそらく日は沈んでしまっているだろうから日の光じゃない、
おそらく間接照明か何かの灯りなんじゃないだろうか。
誰かがいるのか。居るとしたら一人しかいない。
俺が鶴屋さんが用意した道を正しく辿ってこれたのなら
このふすまの向こうには鶴屋さんが居るはずだ。
吹き抜けの廊下で唇を重ねた後、
涙を流しながら俺に背を向け走り去った鶴屋さんの後ろ姿が脳裏によぎる。
何を今更ためらっているんだ俺は。
今更鶴屋さんと会うのが怖いのか?
あぁ、怖いとも。この先に居るのが鶴屋さんだとして、そうして何を話し、
何を伝えればいいのか。その言葉を俺はいまだ用意できていない。
31 名前:38-19[] 投稿日:2010/03/19(金) 20:16:44.11 ID:imSbaqCO0
そして、この先に待っている鶴屋さんが俺を受け入れてくれるとは限らない。
鶴屋さんは一度記憶を失って、俺と関係を持つ以前の鶴屋さんに戻っているのだ。
その鶴屋さんが俺の知っている鶴屋さんと同じように
俺との関係を継続することを選んでくれるのか。それはまったくの未知数だった。
この先に居るであろう鶴屋さんは、俺が知っている鶴屋さんとも
俺が知っていた鶴屋さんとも違う全くの、いわば新たな鶴屋さんだと言える。
それは俺の知らない鶴屋さんだ。
その心情を俺は正しく読み取ることができるのか。
誤解なく、想いを伝えあうことができるのか。
以前と同じように、俺の言葉に笑顔を返してくれるのか。全く以て不明解だ。
その事実がふすまにかけた俺の手をためらわせていた。
拒絶されてもおかしくなく。
受け入れられたとしても以前の鶴屋さんとは違う部分に対して
俺はどう接すればいいのかがわからない。
ただそうだとしても、一人で居る為の空間に
俺を招き入れてくれたその事実だけを心の支えにするしかない。
迷いがあるのは常にそうだ。俺は常に、ずっと、一番初めの最初から。
こうして迷い続けてきたんだからな。
そんな状況を常にひっくり返してくれたのが鶴屋さんの底抜けの明るさと押しの強さで、
そして、俺自身の鶴屋さんのそばに居たいという想いだった。
推理はもういい。何もかもここに置き去りにして、俺は今ふすまを開くしかない。
32 名前:38-20[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:21:46.40 ID:imSbaqCO0
ここに居る俺は迷探偵でも、真犯人でもない。
ただの俺だ。ただそれだけの俺だ。
何者でもないジャスト・ライク・ザットだ。
なら、俺は。
俺が俺の思う通りに。やりたいようにやろう。
その想いだけがややもすれば止まりがちな俺の足を踏み出させてくれる。
俺は日本家屋独特の木材に囲まれ篭もった空気を静かに深く吸い込み、
肺の底に溜めてからゆったりと吐き出した。
腹は決まった。俺はふすまにかけた手を横に動かす。
そこは小さな部屋だった。
俺の部屋ほどもない小さな暗室だった。
一応採光用の小窓が奥に一つ見えたものの
構造上必ず部分的な暗がりが生じるよう設計してあるように見えた。
広さは本間の畳で四畳半ぐらいだろうか。
何分暗いせいで具体的な広さが把握しづらかった。
確かに精神を統一するとかそういう用途には向いているように見えた。
卓台というか小さな文机のようなものが一つ据え置かれている。
ごく小さな収納や飾り棚もある。
ただそれ以上余計なものは一切なく無駄のない簡素な室内だった。
33 名前:38-21[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:27:49.67 ID:imSbaqCO0
多少広い茶室といった趣きである。
部屋に一歩足を踏み入れて左を見ると間接照明が一つだけ床に置かれていた。
デスクライトとそう変わらない大きさの和紙でくるまれた照明で
やわらかな光を発していた。
ただ部屋全体を照らすような灯りではなく、
むしろ光と影の境界を明確にするためのそれであるように思えた。
奥の窓からは月明かりさえも覗かない。
おそらく奥に採光用の空間があるのだろうが月光の反射ではここまで届かないらしい。
右手を見ると奥にもう一つふすまがあった。押し入れのようにも見えたが、
こう広い屋敷のことだから奥にまだ部屋があるのだとも思える。
俺はかろうじて照明の光が届き光と闇の境界に立つそのふすま戸に手をかける。
扉を開くことは簡単で奥はやはり部屋のようだった。
だが先程の部屋とは比べ物にならないほど広い。
空気の感じや音の響きから少なくとも十畳では済まないだろう。
照明に照らされるのは敷居の少し手前までで室内の様子はまったく伺えない。
先程の照明を使えないかとは思ったが充電式のものには見えなかったし
こう暗く広いと電源が見つけられないどころかそもそもあるのかすらもわからない。
先は読めないがもう考え込む気にはならなかった。
俺は何も考えずに足を踏み出すことにした。
俺はもう探偵でもなんでもないんだ。
ならここは普段何も考えていない俺の通りに。何も考えずに進もう。
34 名前:38-22[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:31:51.97 ID:imSbaqCO0
開き直ってみれば案外楽なもので半ばヤケクソ気味に大股で
部屋の奥へ奥へと踏み出した俺はやがて闇の真っ只中に佇んだ。
照明のかすかな光も届かない本当の闇の中に。
さてこれからどうしよう。
そんなことを思っていると背後のふすまが音も立てずに閉まり、
突然まったくの暗闇になってしまった。
暗黒の中に取り残された俺はふすまを閉じた者が誰なのか、
考えるまでもなくその名を呼んでいた。
キョン「鶴屋さん? 鶴屋さんなんですか……?」
正直自信はなかった。
闇の中に閉じ込められるような形になったのは
正体を知られるのが不都合だからという可能性もある。
ふすまを閉めたのが鶴屋さんだと言うならなぜそんなことをする?
俺に姿を見られたくない理由でもあると言うのだろうか。
混乱しながらも俺はその場に佇んで返ってくる言葉を待った。
だがそれは待てど暮らせどやってこなかった。冷や汗が頬を伝う。
もし鶴屋さんじゃなかったら? などというくだらない考えが頭をよぎる。
鶴屋さんでないなら誰だっていうんだ。
こんな不気味な雰囲気に飲まれてたまるか。
そう決心した俺はふすまの方へ振り返り周囲を手で探りながら
わずかずつ足を擦って前に進んだ。
36 名前:38-23[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:37:50.38 ID:imSbaqCO0
ふすまの隙間から光が漏れてくることもない。
元々そんなに確かな光でもなかったのだから当然か。
ふすままでそれなりの距離がある。
一歩進むたびに距離感と方向感覚を失いそうになった。
少しずつ方角が見失っているような気がして俺の不安は一層高まった。
手で何かを頼りにできればいのだが。
そう思って周囲を探っても何に触れることも、壁に触れることもなかった。
自分が今どこに立っているのかもわからないまま、俺は手探りでゆっくりと歩み進んだ。
暗中模索。今の俺にふさわしい言葉だった。
キョン「鶴屋さん、そこに居るなら返事をしてください。
あなたが許してくれたから俺はここまで来れました、
だから顔を見せてください、鶴屋さん。そこに居るなら、出てきてください!」
そう天井が高いというわけでもないのだろう。
部屋の奥や天井に反響した俺の声は距離感を狂わせるには十分なほど
何に減衰されることもなく跳ね返ってきた。調度品などは何も置かれていないに違いない。
でなければここまで綺麗に音が跳ね返ってくることはないだろう。
それはさらに、もしかするとこの場には俺一人しかいないのではないだろうかという
疑念と不安を増幅させる。まさか座敷牢というわけではないだろうが、
生活感のない雰囲気が俺の神経を摩耗させていた。
何度も鶴屋さんの名前を読んだ。
しかしそれでも言葉が返ってくることはなかった。
そうして歩み進んでいるうちになんとか元のふすまにまで辿りつくことができた。
38 名前:38-24[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:42:11.65 ID:imSbaqCO0
手をかけてふすまを開こうとしたが
何かがつっかえているような抵抗を受けて少しも開くことができなかった。
まさか、本当に閉じ込められたっていうのか。
俺の背筋に寒気が伝った。かけた手に力が入らない。
もしかして、もしかすると、いや、まさか。
そんな風に俺は何度も自分が置かれた事態にあれこれと考えを巡らせていた。
そうして閉じ込められたということ以外に、思い当たることが一つ。
このまま今以上に力を込めれば無理やり開くことはできるかもしれない。
だが、それはふすまを閉じた者の意図に反することのように思えた。
俺を閉じ込めるだとか、そんな目的で閉じられたとは思いたくなかった。
顔を見たくない、あるいは見られたくない理由、いや、事情があるのだとしたら。
このふすまは開いてはいけない。たとえ俺の不安がどれだけ増大しようとも。
それが鶴屋さんだったというのなら、なおさら俺はその意図に従う義務がある。
それが俺をこの空間に招き入れてくれた鶴屋さんに対して
俺が返せる唯一の謙譲の姿勢な気がした。
戸にかけた手を離して俺はふすまを背にしてその場に座り込んだ。
深く息を吸い込んだ後軽くもたれるとふすまは俺の体重でたわまずにわずかに抵抗した。
まるで反対側から誰かがもたれかかっているような感覚だった。
ふすまを手で抑えるということはないだろう。それなら位置がおかしい。
それは間違いなく、俺と同じように反対側でふすまに背を預けている者が居ることを表していた。
その人物が何者なのか。考えるまでもなかった。
39 名前:28-25[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:46:38.87 ID:imSbaqCO0
キョン「鶴屋さん……ですか……」
おれはもう一度その人の名を呼んだ。
暗闇の中で何度も呼んだその人の名を。
春休みの初めから。ずっと呼びつづけてきた人の名前を。
俺はそれ以上言葉を発することなく、
沈黙の中で暗闇を見つめ続けながら言葉を待ち続けた。
見ることも、感じることも叶わない空間にまるで言葉だけが置き去りにされているようだった。
感じることも見ることも許されない、
聞き、話す、言葉のやりとりだけが許された空間だった。
まるで他の何者も余計で邪魔だとされているように。
背中の抵抗感が少しだけやわらぎ、ついで少しだけ重たくなった。
感覚が変わった。
おそらく背をもたれさせるのをやめ正面に向き直ったのだろう。
重心を先程よりも上に感じる。ふすまに寄りそうような形になっているのだろうか。
頭の中でその姿を想像する。
俺はふすまの反対側の人間を鶴屋さんと断定した。
やはり鶴屋さんは俺を待っていたのだ。ここで、この空間で。
伝えたいことがあったから今ここでこうしているのだ。
俺は鶴屋さんの答えを待った。
ふすまの向こう側からポツリポツリと、声が聞こえ始めた。
41 名前:28-26[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:50:38.18 ID:imSbaqCO0
鶴屋さん「キョンくん……ごめん……
こんな風にしか話せなくてさ……ほんとにごめん……」
その声音は弱々しく、覇気が感じられなかった。
俺が知っていた鶴屋さんの声でも、俺が知っている鶴屋さんの声でもない。
やはり今の鶴屋さんは、俺の知らない鶴屋さんだった。
キョン「いいんです……無理やり訪ねてきたのは、俺の方ですから。
招いてくれて、ありがとうございます」
鶴屋さんは俺の顔を見たくないのではなく、
おそらく見ることができないのだろう。
だから直接俺に来てもいいと答えることはできなかったし、
玄関で迎えることもできなかった。
まわりくどいささやかな手がかりを残して俺をここに誘導することしかできなかった。
温もりも表情も押し隠すために、それは自分の感情を俺に見せないためなのだろう。
あの探偵ごっこを通して俺たちは互いの仕草や表情や
瞳からさえ互いの感情が洞察できるほどに互いの距離を縮めていた。
その洞察が、今は余計なのだ。
ただ純粋に言葉を交わすにはあまりにも性急過ぎるのだ。
今の俺と鶴屋さんに必要なのは瞬間的に心を通わせることではない。
それでは何も解決しない。今必要とされているのは、ちゃんとした言葉によって。
想いを伝えることだけだった。
42 名前:28-27[] 投稿日:2010/03/19(金) 20:55:01.02 ID:imSbaqCO0
鶴屋さん「ううんっ……来てくれてありがとっさ……キョンくん……
あんな風に逃げておいてさ、キョンくんを傷つけたのに……
いろいろ勝手なことまで手を回しちゃってごめんよ……」
キョン「少しだけ怖い思いはしましたけど、大丈夫です。
むしろ助かりました。さすがに走ってここまでくるのは無理がありましたからね」
ふすまの向こうで鶴屋さんが少しだけ笑ったのがわかった。
声は聞こえなかったが、なんとなく、背に感じる感覚で。
俺もなんとなく微笑んでしまう。少しだけ息を吐く時間を得て俺はもう一度深呼吸をした。
俺は鶴屋さんに伝えることがあった。
キョン「過去は……閉じ込められてしまいました……
時間の輪ってやつに……説明すると、ややこしいんですけどね……」
鶴屋さん「それは、なんとなくわかってっからさ……いいよ……
まだ、他にも……話したいことはあるんだよねっ……?」
その言葉は俺の考えを見透かしているというよりも
そうであって欲しいという願いに根差すものなのだろう。
そして当然のこと、俺はまだすべてを伝えていない。
最初から最後までの何もかもを。その感情のすべてを。
キョン「えぇ、もちろん……」
俺はもう一度深く息を吸い込んだ。その音も重さの感覚も伝わっているのだろう。
今度は鶴屋さんの方が何も言わずにじっと待っててくれていた。
俺はゆっくりと息を吐き出し呼吸を整えてから話し始める。
43 名前:28-28[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:58:56.14 ID:imSbaqCO0
キョン「過去は、閉じ込められてしまいました……、
だから、今これから、あなたと始めたいんです……。
新しい時間を、新しい俺たちの時間を、今、これから……。
正直、あなたが居ないと、俺はどうにかなってしまう。
これは本当に俺のわがままで、何の正しさも根拠もありません。
ただ、俺にはあなたが必要で、俺にはあなたが足りなくて……
それが……苦しくてたまらないんです……鶴屋さん……」
俺は自分の気持ちを吐き出した。
感情に流されないよう必死に自分をなだめながらありのままの本心を語った。
先走らないよう気をつけながら発した一言一言に何の嘘偽りもなかった。
その言葉がどれだけ鶴屋さんに届いたのかはわからない。
そうして今度は、俺の待つ順番がやってきた。
しかしそれはすぐに終わりを迎えた。
鶴屋さん「キョンくん……聞いてほしいっさ……」
なだめるように、落ち着かせるように語りかけた鶴屋さんの言葉に
悪い予感を感じて俺は唇を噛みしめた。
拳を握りしめて後に続く言葉に備える。
そんなことは無意味なことだとわかっていても、それをやめることはできなかった。
そうして耳に聞こえる音だけに意識を向け言葉の意味だけを拾い上げる。
鶴屋さん「あたしたちって……さ……
本当に、一緒に居ても……いいのかな……許されることなのかな……」
44 名前:28-29[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:02:29.51 ID:imSbaqCO0
俺は何かを言い返したくてたまらなかった。
鶴屋さんの言葉を否定したくてたまらなかった。
それなのに、返す言葉が見つからなかった。頭の中のどこを探しても見つからなかった。
俺と鶴屋さんの関係は世界に受け入れられざるもので、一度はなかったことになった。
その時間の輪を突き破ってまで俺は想いをつないでしまった。
時間の輪にまたがって記憶を継承させてしまった。
その俺達がこれからどうなっていくのか。それはまったくの未知数で、
誰にも予測がつかないことだ。その先が本当に存在するのかどうかさえもわからない。
世界の自浄作用ってやつはもう俺達を護っちゃくれない。
安全を保障してはくれない。むき出しのまま艱難辛苦にわが身をさらされるしか道はない。
鶴屋さんが語る恐怖というのは即ちそれだった。
異端として一度は打ち捨てられた想いを正しく受け継ぐことができるのか。
それは俺自身にもわからないことだった。
わかっていたつもりだったのに、いまだに俺は引きずったままだった。
胸の奥から否定の感情が次々と湧き上がってくるのを抑えることができない。
鶴屋さんの話はまだ終わっていない。
俺の待つ順番はいまだ継続している。その途切れ途切れの言葉を俺はただ待ち続けた。
言葉を返さないないままでいる俺の背に
ふすまを挟んで感じる鶴屋さんの重さが少しだけ増した。
胸の内が張り裂けそうだったが今は耐え忍ぶしかなかった。鶴屋さんの話は続いていく。
悲しみと悔しさをにじませるようにポツリポツリと言葉をこぼすように。
45 名前:28-30[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:05:41.83 ID:imSbaqCO0
鶴屋さん「こうして一緒に居ても……いいのかなって、
正直、わからなくなっちゃってさ……。
キョンくんのことは、好きさっ……大好きっさ……
今でも……それは変わらないにょろ……でもさ……
それってすごく、勝手なことだよね……ずるいことだよね……
あたしたちにはさ……一緒に居ていい理由が、あるのかな……?
それがキョンくんの為になるのかな……
あたしには……わかんないよ……信じられないよ……」
俺は何も答えることができなかった。
言葉を選ぶことも偽りを述べることもできなかった。
手段や犯行として言葉を紡ぐことさえもできなかった。
泣きたいのに、どう泣けばいいのかさえわからなかった。
涙は涙腺を通ることなく押しとどめられ、頭の奥がひどく痛んだ。
それでもかすかににじんだそれを目元を押さえてこらえた俺は
最後まで鶴屋さんの言葉を聞こうと思った。
それが俺の果たすべき責任なのだと自分に言い聞かせつつ。
そして自身の犯行の代償なのだとも。
扉の向こうから鶴屋さんが深呼吸をする息遣いが聞こえた。
耳に聞こえる音はそれだけでも心地よかった。
この人の息遣いや些細な仕草さえもが俺を安心させてくれる。
言葉を耳にする勇気を与えてくれた。
自分を落ち着かせた鶴屋さんはゆっくりと言葉を続ける。
心情を吐露することにどれだけ苦痛が伴おうとも俺に宛てた言葉を選び出していく。
46 名前:38-31[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:10:22.94 ID:imSbaqCO0
その痛みがどれほどのものなのか。苦しさがどれほどのことなのか。
想像だにできない俺はただ自分の唇を噛みしめていることしかできなかった。
鶴屋さん「今のあたしはさ……前みたいに、
キョンくんと笑い合ったり……じゃれ合ったり、
きっとできないと思う……」
言葉を耳に拾うたびに震えを増す手先を腹に抱え肘で押さえつけ、
反対側の手は額に添えて抑えた。
あの時の鶴屋さんはもういない。俺と笑いあった鶴屋さんはもういない。
その事実が俺を悲しくさせる。
俺とあの人の時間は時間の輪に置き去りにされたまま還ることはない。
怒りでも憎しみでもなく。ただ辛さだけが俺の神経を苛んでいく。
背中にかかる重さが増した、そんな気がした。
鶴屋さん「今のあたしはさっ……前のあたしであって……前のあたしとは違う……
キョンくんの知らない、違うあたしなんだよっ……」
言葉の端々に嗚咽が混じるのも構わずに
鶴屋さんは息を殺しながら必死で言葉だけをつないでいった。
喉の奥から絞り出すようにかすれるように、
か細く発された言葉が俺の胸の奥に深く突き刺さった。
心臓の直下に痛みを感じる。途切れ途切れに背中に感じる鶴屋さんの重さから、
彼女が泣いているのがわかった。悲しみと悔しさで身体を震わせているのがわかった。
感情を俺に悟られないように必死で押し隠そうとしているのがわかった。
47 名前:38-32[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:12:32.77 ID:imSbaqCO0
そんな鶴屋さんに、俺は何をしてやれる。何をしてあげられるっていうんだ。
傷ついて、寂しがっている彼女に対してどうしてやれるっていうんだ。
ただ暗闇を見つめ続けることしか俺にはできないっていうのか。
光も熱も音も無くした俺自身に最後に何が残っているというんだ。
感覚のすべてをなくした俺に残っているものを探り出す。
五感のすべてを遮断された俺に残されているものはたった一つ。
それが唯一、俺を勇気づけてここに居させてくれるものだった。
時間の輪に閉じ込められた俺が胸の内に留め切れなかったもの。
ただ想いというそれだけ、たった一つそれだけだった。
背後に感じる鶴屋さんの重みが増して殺されていた息遣いがよみがえる。
息を殺すことも忘れた鶴屋さんがつなぐ言葉を俺は耳に聞く。
光も熱も音もすべてふすま一枚を隔てた向こう側にあった。
そして想いだけが暗闇の中に置き去りにされていた。
その閉ざされた闇に向かって、俺に向かって鶴屋さんは語りかける。
鶴屋さん「それでも……それでもさ……」
必死で搾り出した声に俺は確かに感じていた。
鶴屋さんの俺に対する想いを。偽らざる感情を。
48 名前:38-33[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:14:43.17 ID:imSbaqCO0
その中に確かに、光を感じることができた。
鶴屋さん「それでも……さ……」
背に感じる重さに温もりを感じることができた。
たとえ何に隔てられていたとしても。
俺には感じることができた。
鶴屋さんの胸の高鳴りを。肌を合わせることがなくとも。
想像することができた。
かすれる声が一際大きくなり、ついに鶴屋さんは息を押し殺すことをやめた。
鶴屋さん「それでもっ……あたしを……
キョンくんはあたしを、さっ……選んで……くれるのかなっ……」
いつか尋ねたあの時の。
その時のように。
鶴屋さん「ねぇ……キョンくんっ……」
俺の心臓が一際大きく高鳴った。
俺の頭の中に。
言葉だけが取り残されたような暗闇の中で。
俺の胸の内に。
すべての感覚が蘇った。
49 名前:38-34[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:17:28.68 ID:imSbaqCO0
俺の答えは決まっている。たった一つ、決まっている。
あの時、許しでも理解でもなく。
俺の言葉を求めてくれた鶴屋さんにそう伝えたように。
もう一度。俺は言う。
伝えるべき言葉を。俺が一番伝えたかった答えを。
キョン「当たり前です……」
その一言を。
ならば鶴屋さんが俺に返す言葉もやはり決まっている。
そう、その言葉は俺の求める、俺が求めて求め続けてやまないものだった。
ゆっくりとふすまが開かれ、
あらかじめ背を離していた俺の背後から柔らかな光が射し暗闇の中から俺を照らし出す。
振り返る間もなく、背中に重みを感じた。
確かな温もりが俺の背中を伝って胸の内に届いた。
再びともった灯りに俺は懐かしさを覚えた。
こんな風に、心に灯りを灯したことがある。そんな気がした。
耳元にそっと唇が寄せられ、
息遣いにくすぐられながら俺は確かに聞いた。
50 名前:38-35end[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:20:48.79 ID:imSbaqCO0
鶴屋さん「浮気……すんなよっ……」
泣くようにかすれる声と吐息の奥の裏にこの人のすべてを。
この人の感情のすべてを。
鶴屋さんという人の何もかもを。
知ることができた気がした。
そうして薄明かりの中、
俺の背にそっと身を寄せて手を回した鶴屋さんのその手を取って。
そのまま振り返った俺は、かすかに照らし出された明りの中で。
鶴屋さんの確かなぬくもりを感じていた。
すべてを取り戻した温まりと明るみの中で。
互いの心音と感情をいつまでも。
感じ合っていたいと思った────。
51 名前:39-1[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:27:36.47 ID:imSbaqCO0
かすれる声と薄明かりの中に浮かび上がった素肌は赤みの中に白さを湛えていた。
中心の筋目に舌を這わせて奥に探りを入れる。
拒むように体が戦慄くことも構わずに指先で入口を押し広げると
小さく息を漏らした鶴屋さんは批難するように俺を見る。
強引さを指摘されても已むことのない衝動が俺を突き動かしていた。
それでもそこは若輩者の俺であるから上手く自分を導くことができなかった。
何度も失敗を繰り返す姿を見かねて鶴屋さんは俺を抱きよせ自ら体を動かして位置を示す。
俺はただその場から前進するだけでよかった。
鶴屋さんはため息と共に自ら身をよじって自分が気に入る場所を俺に教えようとする。
そこに及びついたとき鶴屋さんの体がひときわ大きく強張った。
俺を見る目の中に扇情が混じる。
呆けたように俺を見つめる胡乱な表情に引き寄せられるままに唇を重ねた。
ねだられるままに刺激を与えていく中で何度も俺の名前が呼ばれた。
耳をくすぐる吐息に混じって肝胆相照らす仲になったことを悦ぶ声が聞こえる。
胸の内を吐きだすように思いのたけを奥に注ぎ込むと
背に回された指が立てられ爪が肉に深く食い込む。それでも俺は構わなかった。
鶴屋さんが俺に何かを感じさせてくれるのなら
それが痛みだろうと楽しみだろうと苦しみだろうと何でもよかった。
俺はただ単に楽しみたかったわけじゃないし、ただ痛みを通して実感を得たいわけでもなく。
ただ彼女から、鶴屋さんから何かを感じていたかった。
感じ続けていたかった。
53 名前:39-2[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:31:23.78 ID:imSbaqCO0
それが俺の望む唯一のことで、鶴屋さんに望む唯一のことで。
すっかり乱れてしまった普段着の和服の上に雫が滴り落ちる。
汚れてしまうのも気にせずに鶴屋さんは俺の頬に手を添え
自分の方へ向き直らせると満足していないと盛んに主張してきた。
それでもやはり控え目に、おずおずと言葉尻を濁らせながら
吐き出す言葉の一つ一つに気遣いをにじませながら、最後には俺に決めさせようとする。
鶴屋さん「キョンくんは……その……まだ、平気なのかなっ……?
良ければ、だけどさ。場所変えてさっ、ちゃんと布団の上でしないっかなっ……?
い、一応用意してあったりするんだけど……さっ……」
鶴屋さんが一体どんな気持ちでその準備をしていたのかを想像するだけで
俺は笑い出しそうになってしまった。
そんな俺を見てふくれっ面を作る鶴屋さんの可愛さったらなかったのだが、
非難の色がますます濃くなっていくのを受けて降参の白旗を上げた。
それでも必要以上に俺を責めることはなく居住いを正して俺の手を取り
卓台の中から行燈のような電池式の照明を手に持つと暗い足元の廊下を迷うことなく進んでいく。
本物の日本家屋には無粋な蛍光灯というものは全く存在しないらしい。
確かにこの雰囲気の中で赤々と蛍光灯が灯っていたら興ざめではある。
そうすることを常識だと思っているに違いない鶴屋さんが
俺が暗がりの中を恐る恐る進んできたという話を聞いたらどう思うのだろう。
大笑いするのか、苦笑いするのか、
それとも教えなかった自分を恥ずかしく思うのか、やはりまったくの未知数だった。
54 名前:39-3[] 投稿日:2010/03/19(金) 21:35:07.03 ID:imSbaqCO0
こうして俺の手を取って歩み進む鶴屋さんは
俺の知っている鶴屋さんであって、そして俺の知らない鶴屋さんでもあって。
しかしその言葉の裏の意味に俺は今しがた思い至った。
つまり、こういうことではないだろうか。
結局のところ俺が知っている鶴屋さんというのは
俺と一緒に居た時間の鶴屋さんである。
そのまま言葉のままの意味で、俺は俺と過ごしたその時間の鶴屋さんしか知り得ない。
俺の知らない俺の居ない場所でも、鶴屋さんの時間は変わらずにそこにある。
それもやはり俺の知らない鶴屋さんなのだ。俺の知ることのできない鶴屋さんなのだ。
まだ俺の知らない色々な面が鶴屋さんにはある。
そしてそれを受け入れる用意が俺にあるのか。
あの質問にはこういう裏の意味があったのだと今ながらに思う。
思えばそれは当たり前のことだ。俺にだってある。
鶴屋さんの知らない俺の時間が。俺だけが過ごした俺だけの時間が。
そうしたものも含めて、自分が受け入れてもらえるのかどうか。
きっと鶴屋さんはそれを俺に尋ねたかったのだろう。
時間の輪がどうとかではなく、
物語の本筋がどうとかではなく。
ただ当たり前のありきたりの質問を俺にぶつけただけなのだ。
55 名前:39-4[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:38:33.11 ID:imSbaqCO0
たとえ俺の気に入らない側面が自分にあってもいいのかと、
それでも自分を好きでいてくれるのかと。
そういう当たり前のことを俺に尋ねたんだ。
その当たり前の質問に、
当たり前ですと答えられた俺は正解を導き出すことができた。
今ここにたどりついて、
ようやく俺はありのままの鶴屋さんを受け入れる用意が整ったのかもしれない。
そう思えば今の鶴屋さんがかつての鶴屋さんと
どう違うかなどという疑問に意味がないことがわかる。
それでもその質問が選ばれたのは、
やはり、俺の真意を問い質すにはうってつけだからだ。
そうすることでようやく俺は自分の気持ちを真正面からとらえることができた。
さ迷うことなく、安らぎと共に鶴屋さんとここにいられる。
俺はかつてあの時計のある広場で鶴屋さんにされた質問を思い出す。
俺と鶴屋さんの違いとは何か。
やはりあの質問にも答えなどなかったのだ。
ただ求められていたのは、俺の気持ちだった。
ありのままの感情だった。
臆病になっていたのは鶴屋さんではない。俺自身だった。
今なら素直にそう思える。
56 名前:39-5[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:41:47.60 ID:imSbaqCO0
こうして自分の感情に気づくことができたのは鶴屋さんのおかげで、
やはり俺はここにきて伝えた通りにこの人のことが必要なんだ。
鶴屋さんなしでは生きられない。
それほど、俺の中で鶴屋さんと過ごした俺の時間は大きなものになっていた。
だからこそ、ここでこうして二人で居るということに意味がある。
素直にそう思うことができた。
そうしてしばらく歩きいくつか部屋を横切りながら奥へと進むと
それほど広くもないが天井が高くいくつも採光窓がある部屋にたどりついた。
生活感のあるその部屋は誰かの私室のようにも見えた。
それが誰の、とは考えるまでもなく。
あらかじめ敷かれた布団の上に引き倒されるままに
俺は鶴屋さん上に四つん這いになった。そばに転がった照明だけが俺達を照らす。
うっすらと照らし出される灯りの中で鶴屋さんが俺を見る目には
まだ怯えが残っているような気がした。
俺が自分の気持ちや質問の意味について気づくことができて
ようやく感じることができるような、些細な変化だった。
下手をしていれば永遠に見過ごしていたかもしれない
その不安をぬぐうことができるのは今この時を置いて他にない。
俺は鶴屋さんの耳もとに口を寄せて静かにささやく。
キョン「あの時……広場で俺に質問したことを、覚えていますか……?」
57 名前:39-6[] 投稿日:2010/03/19(金) 21:45:18.80 ID:imSbaqCO0
鶴屋さん「えっと……広場でしたのは……確か、
あたしとキョンくんがどう違うのかって話……だったよねっ?
あ、あれはもーいいのさっ、ただ単にその場の勢いで
言っちゃっただけだからさ、キョンくんが全然……
気にすることなんて……ないっから……さっ……?」
ひょっとするとそれは鶴屋さん自身も気づいていない感情なのではないだろうか。
鶴屋さんが俺の隠された感情に気づかせてくれたように、
俺も鶴屋さんからそれを引き出すことができるかもしれない。
そしてそれがおそらく、俺がこの人にしてあげられる唯一の、
たった一つのことなのだ。それに今ようやく気付くことができた。
キョン「でも俺はその答えに辿りつきましたよ。
きっと、鶴屋さんも気にいってくれるんじゃないでしょうか」
鶴屋さん「ん……そこまで言うんだったらさっ、じゃぁ、聞かせてもらうよっ。
キョンくんが見つけたっていう、答えってやつをさっ」
俺の方へと顔を向けて話す口ぶりには若干以前の鶴屋さんがにじみ出ていた。
やはり内心気になっていたらしい。
そうして興味深そうに俺の目をじっと見つめてくる。
その瞳には明らかに期待の色が浮かんでいた。
まったくもって素直じゃいのにあけっぴろげに
素直なその態度に微笑ましさを感じながら、俺は言う。
58 名前:39-7[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:48:36.91 ID:imSbaqCO0
キョン「どうでもいいです」
鶴屋さん「……えっ?」
呆気にとられたような顔をして目を丸くした鶴屋さんは俺の表情をしげしげと観察する。
まったく嘘を言っている風には取れなかったのか、
それが余計に疑問をかきたてるのか。
未知の対象と遭遇したような驚きに満ちた表情で俺を見つめてくる。
そして我慢しきれなかったのか俺に直接尋ねてくる。
鶴屋さん「ほんとに、ほんとにどうでもいいってことなのかいっ?
興味がないってことじゃなくって、何がどう違ってても、
ほんとに全然気にしないって、そう言いたいにょろっ!?」
俺は素直に短く大きく頷く。
正真正銘俺の本心なのだから他に言いようも飾りようもない。
そんな俺の清々しい表情を見て信じられないといった表情を浮かべた鶴屋さんは
手強い難敵でも見るような視線で俺をねめつけていたが、
やがて頬を緩ませ笑みを浮かべると次の瞬間には大笑いし始めた。
俺は頬杖を突きながらしれっとした顔で鶴屋さんの一人爆笑大会を見守る。
嬉しそうに転げまわる鶴屋さんに何度もぶつかりながら、
そんな攻撃では効きませんと挑発するとやはり嬉しそうにムキになった鶴屋さんが
俺の体をバシバシと叩いてきた。
それでも俺が平然としている姿を見るや否や考え込むような表情を作った後
何かを思いついたらしい悪意に満ちた邪悪な笑みを浮かべる。
60 名前:39-8[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:51:41.06 ID:imSbaqCO0
八重歯に証明が反射してキラリと光った、ような光らなかったような。
多分この人の八重歯が光るのは普段ちゃんと歯磨きをしているせいだな。
謎が解けた。やはり超常現象でもなんでもなかったらしい。よかったよかった。
そんな馬鹿なことを考えていると突然鶴屋さんが俺の上に飛び乗ってきた。
馬乗りになったまま胸の前で手を交差させると
わきわきと指先を小刻みに動かして俺の覚悟を促す。
その構えはまさに俺が以前鶴屋さんに見せたものである。
丸鶴デパートの雑貨屋で超然と俺へのいじめをやめない鶴屋さんをとっちめるための必殺技、
というほどのものでもない単なる小技である。ただ必笑なのは間違いがなかった。
一文字違っている気もするが。まぁそれもよくあることである。
貝が怪になったり名が迷になったりするなんてことは。わりとよくあることである。
鶴屋さん「キョンくん、覚悟するっさっ! あん時の恨み、今こそ返してあげるよっ!」
そうして掛け声と共に青ざめる暇もなく瞬時に伸ばされた手で
全身のありとあらゆる笑いの急所をまさぐられ、
俺は鶴屋さんに負けないくらい大声でのたうちまわった。
鶴屋さん「うりうりうりうりっ!
ここかいっ、ここが弱いのかいキョンくんはっ! そらそらそらっ!」
そうしてボロボロになり果てるまでなぶられ弄ばれ攻撃の手が緩んだ頃には
畳の上にはみ出して力なく横たわる羽目になった。
温まった布団と違って本間の畳は若干冷たかった。
62 名前:39-9[] 投稿日:2010/03/19(金) 21:56:57.48 ID:imSbaqCO0
息も絶え絶えに布団の方を見ると鶴屋さんは
せっかく直した着物をはだけさせたまま嬉しそうにこちらを睨んでいた。
してやったりという表情を浮かべて満面の笑みを浮かべる。
まったくもって鶴屋さんらしいその表情に俺は安心さえ覚えた。
やはり鶴屋さんはこうでなくてはならない。こうでなくてはつまらない。
そうして俺を時めかせてくれることこそが
俺が鶴屋さんなしでは生きられなくなった根本の原因なのだ。
責任の一つも取ってもらいたいと全くもって男らしくもないことを考えてしまうのは
鶴屋さんが男らし過ぎるからなのだろうか。いや、違うな。
それは単純に、俺がそうして欲しいからで。そして何を隠そうそれは。
俺がこの人にしてあげたいことそのものだった。
それをわかってかわからいでか、
挑発するように着物の肩をよりはだけさせた鶴屋さんは
その全体的に控え目な胸元で俺を煽ろうとする。
鶴屋さん「仕返し、しないにょろっ?」
舌先を少しだけ覗かせながら誘い出そうとさえしてくる。
そんな風に言われれば動かないわけにはいかないし、
そんな風に誘われれば乗らないわけにもいかない。
布団の上に戻った俺はそのまま鶴屋さんを崩し伏せて
再び四つん這いの格好になる。
63 名前:39-10end[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 21:59:44.18 ID:imSbaqCO0
微笑みをたたえて俺を見上げる鶴屋さんの瞳には
もう何の陰りも迷いも浮かんでいなかった。
今ようやく、鶴屋さんの方でも俺を受け入れる用意が整ったのだ。
嬉しそうに楽しげに俺に笑いかけてくれる鶴屋さんに引き寄せられるままに
鶴屋さんの唇に自分のそれを重ねて、深く永い口づけを交わした。
離れたときに引いた糸を舌先で舐め取った鶴屋さんは
そのまま俺を抱き寄せて耳打ちするように囁く。
鶴屋さん「ありがとっさ……キョンくんっ……」
そうして呼びかける鶴屋さんの声が耳をくすぐって、なんとも言えない心地になる。
嬉しそうに強く抱きしめてくれる鶴屋さんに同じようにそうしていると、
朝まで眠ることはなく。
抱き合ったままでいられたのだった────。
65 名前:都留屋シン ◆wScl9LyheA [] 投稿日:2010/03/19(金) 22:04:43.12 ID:imSbaqCO0
いえ、まだ追記分があります。
ところがどっこい今日は時間的にこれまでなのでまた明日にしたいと思います。
すごく申し訳ないんですけどまた保守していただけると助かります。
最後の最後のラストラン、それまでお付き合いいただけましたらどうか。
この後がエピローグになります。それでは明日、また会いましょうノシ
70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 22:18:57.49 ID:imSbaqCO0
追記
投稿時間は通常通り七時半からを予定しています。
終了時刻はどんなに遅くても九時半までには終わるでしょう。
ではまたノシ
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