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純「規制とけた!」3

230 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 21:45:15.56 ID:6pTbDV7pO [137/159]

憂「ところで、次の作品は2枚しかないみたいだけど」

梓「次の作品っていうか、最後の作品みたいだね」

憂「ほんとだ。……もうすっかり夜だね」

梓「さっさと終わらせて、さっさと帰ろっか」

憂「そうだね」ペラ

憂「あ、タイトル澪さんだ」

梓「そういえば澪先輩、全編通してなんかいまいち報われてない気がするよ」

憂「当然のことだけど、毎回お姉ちゃんに奪われてるよね」

梓「うん……別に当然ではないけど」

梓「じゃあ、読もうか」

232 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 21:50:05.18 ID:6pTbDV7pO [138/159]
 

 澪「律、危ないっ!!」




233 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 21:55:24.33 ID:6pTbDV7pO [139/159]
 
 キキーッ! ドン

律「いて」トテ

おばさん「あら、ごめんなさいね。買い物しすぎて前が見えにくいのよ。……大丈夫?」

律「平気平気。おばちゃんこそ気をつけろよなー。んじゃ!」

おばさん「またねー律ちゃーん」キコキコ

律「……うふ」

澪「……なんだよ」カアァ

律「律、危ないっ!! なーんて、ずいぶん大袈裟ですなぁ、ん?」

澪「だって……律がちゃんと周り見てないから」

律「ごめんごめん、澪があんまりかわいいからさー!」

澪「えっ……そ、そんな……変なこと言うな!」

律「照れるなよーみおー♪」ウリウリ


234 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:00:16.21 ID:6pTbDV7pO [140/159]
 
澪「て、照れるに決まってるだろ。……律にそんなこと言われたら」ドキドキ

律「ん、なに澪? なんか言った?」

澪「……何でもないよ。聞こえなかったなら、いい」

律「……なんだよ。澪だっていつも聞こえてないくせに」

澪「え? どうした律?」

律「ほらまただ……もういいよバカ澪」

澪「えっ?」

律「……あっ、道路の向こう、唯がいるぞ! おーい、唯ー!」ダダッ

澪「おい、ちょっと待てよ、律……」

 キキーッ! ドン

 ドサッ

律「……」

澪「……信号……赤だぞ?」


 終わり。


236 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:05:10.89 ID:6pTbDV7pO [141/159]
 
梓「……」

憂「律さんすごいね。1/1枚で轢かれるなんて」

梓「ああ、うん……」

憂「あれだけで100枚くらいやってほしいね!」ワクワク

梓「何が嬉しいのかわかんないよ、憂」

梓「てっきり報われない澪先輩のための救済かと思ってたのに……」

梓「なんか恨みでもあるの? 純……」

梓「……純?」ガタッ


237 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:10:53.49 ID:6pTbDV7pO [142/159]
 
憂「……帰った?」

梓「まさかね。廊下に出てみようよ」スタスタ

梓「……」キョロキョロ

梓「嘘だろあの野郎」ギリッ

憂「梓ちゃん、書き置きがあるよ」ガサッ

憂「執筆に集中したいから先帰るよ。憂のリクエストは明日にでも」

憂「あと、棒引きは1部よけいに印刷しちゃったから、持って帰っちゃってもいいよ。グフ」

梓「グフじゃねーよ」

憂「持って帰ろう、梓ちゃん!」

梓「……いやだよ、後半の展開が個人的にきつい」

憂「私は気にしないけどなあ。お姉ちゃんすごくかわいかったし……」ポヤー

梓「こういうのは誰かが死ぬより嫌だよ」


238 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:15:21.57 ID:6pTbDV7pO [143/159]
 
梓「さてと、じゃあ純もいないわけだし、帰ろっか」

憂「うん」ゴソゴソ

梓「結局持って帰るんだ」

憂「たまには具体的な妄想でしたいじゃん」

梓「用途を言わないで」

憂「言ってないよ?」

梓「え? ごめん」

――――

梓「じゃ、私こっちだから」

憂「じゃーね、梓ちゃん」


240 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:21:05.84 ID:6pTbDV7pO [144/159]
 
憂「……?」

憂(なんか、家の中が騒がしいな)

憂(澪さんたちが来てるのかな?)

憂「ただいまー」ガチャ

 ドタドタ

唯「おっかえりー! 憂ー!」ピューン

憂「たっだいまー! 遅くなってごめんね。すぐご飯作るよ」ガチャ

唯「おかえり憂ー、アイス買ってきたー?」

唯「あ、おかえり憂。……ねぇ、そろそろりっちゃんとのこと、なんとかしようよ」


241 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:25:09.97 ID:6pTbDV7pO [145/159]
 
憂「……」バタン

 『オギャー! オギャー!』

唯「ああ、ごめん憂! 赤ちゃん泣いてるや。ご飯よろしく!」トトト

憂「……よし、もう一回」ガチャ

唯「憂! りっちゃんだって、考え変えたんだよ? あのときのりっちゃんじゃないんだから!」

唯「あれ……アイス、なし……?」パチクリ

憂「くそっ!」バタン

憂「落ち着け落ち着け……まずは事態を正しく受け止めること……うん、だいたい解ってきた……」

憂「どうやらここにいるのは純ちゃんが書いたお話の中のお姉ちゃんたち。きっと、完結した時点での」

唯「開けてよ! 憂! ちゃんと話しあおう?」ドンドン

憂「……!? 本物のお姉ちゃんはどこ!?」

 ガチャ

唯「ふー、いい湯であった」ホカホカ



242 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:30:19.91 ID:6pTbDV7pO [146/159]
 
憂「お姉ちゃん! ……お姉ちゃんだよね?」

唯「う、うん。あ、おかえり憂、おそかっ

憂「ラーメン二郎って知ってる?」

唯「え? うん、なんかすごいラーメンを出すらしいね」

憂「お姉ちゃんは私が好きお姉ちゃんは私が好きお姉ちゃんは私が好き」

唯「な、なにやってるの、憂?」

憂「タイムは? 足跡は?」

唯「えーっと……7時くらいだと思うけど……足跡?」

憂「フタロイドって知ってる?」

唯「蓋? ごめん、わかんないや」

憂「キキーッ! ドン!」

唯「わあー!」

憂「お姉ちゃんだね!」


243 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:35:21.66 ID:6pTbDV7pO [147/159]
 
唯「あ、もしかしてうちの中に私がいっぱいいるから混乱してる?」

憂「それ知ってた上でのんびりお風呂入ってたの!?」

唯「なんか個性豊かでかわいいよー」

憂「お姉ちゃんがかわいいのは分かってるけど! かわいくてもおかしいの、この状況!」

唯「ま、ご飯にしようよ」ヘラヘラ

憂「あう……そうだね」

――――

 台所

唯「憂、おねがい、話聞いて……」

憂「律さんのことならもう怒ってないよ。お姉ちゃんをよろしくお願いしますって言っておいて」トントン

唯「う……うい!」ジワッ


244 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:40:15.22 ID:6pTbDV7pO [148/159]
 
唯「ういー、あいすー!」ゴロゴロ

憂「ご飯食べてから! また味しなくなっちゃうよ?」ジャーッ

唯「ひいっ! それはカンベン!」ピタッ

唯「ういー、オムツどこー?」

憂「そこの戸棚に入ってるよー」コトコト

唯「おっ、あったあった。ありがと憂」スッ

唯「大変だね、憂」

憂「これ全部お姉ちゃんなんだね……」

唯「憂、ご飯が終わったら会って欲しい人がいるんだけど」

憂「え……それもお姉ちゃん?」

唯「うん……」


245 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 22:45:16.90 ID:6pTbDV7pO [149/159]
 
 夕食後、唯の部屋

唯「……みんなは元気なのに、この人だけずっと目を覚まさないんだ」

憂「すごく痩せてるね……」

憂(きっと卒業恐怖症のときのお姉ちゃんだ)

憂(でもあの話のオチは確か……)

唯「なんとかできないかな、憂……」

憂(澪さんのケースを思い出すと……もうきっと)

憂(ううん! 諦めちゃだめだ!)

憂「……わかった。なんとかしてみるよ」

唯「憂……ありがとう」ニコ

憂(やっぱり本物のお姉ちゃんが一番かわいい!)

唯「じゃ私、赤ちゃんの面倒みてくるね」ガチャ

憂「……あれ?」


246 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:00:28.70 ID:6pTbDV7pO [150/159]
 
憂「……ニート」チョキチョキ

憂「……」ペタペタ

憂「……ことだま」チョキチョキ

憂「……」ペタペタ

憂「うーん……G・P」チョキチョキ

憂「ちんぽ……いやいや、ふたなり」チョキチョキ

憂「お姉ちゃんはラヴで!」チョキチョキ

憂「……」ペタペタペタペタ

憂「よーし、できた! お姉ちゃんたちみんな集まってー!」


247 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:05:40.21 ID:6pTbDV7pO [151/159]
 
唯「憂に着せてほしいなぁ……」モジモジ

憂「はい、ことだまだね」キセキセ

唯「りっちゃんが電話に出なくて……」ウルウル

憂「はい、ふたなり」キセキセ

唯「ういー、勉強でわかんないとこあるんだけど」デヘヘ

憂「え? うん、わかった、じゃあ教えてあげるね」

憂「……あっ、ニートか……こりゃ失敗したかな」キセキセ

唯「ういー、プレゼントって?」

憂「はい、お姉ちゃんの部屋着」キセキセ

唯「おー! ラヴだって、かわいいー!」


248 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:10:23.36 ID:6pTbDV7pO [152/159]
 
憂「さてと……」

唯「……」ヌガシヌガシ

憂「私は悪いことしてない」

唯「……」キセキセ

憂「よしっ」

憂「おかゆ……ちょっと熱いな」フーフー

憂「……」カミカミ

憂(……私は悪いことしてない。ただお姉ちゃんの代わりに炭水化物をアミラーゼで分解してるだけ)カミカミ

憂(体起こして……口を開けさせて……)カミカミ

唯「……」

憂「ん……」トロトロ

唯「……」


249 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:15:21.05 ID:6pTbDV7pO [153/159]
 
憂「……」チラッ

唯「……」コクン コクン

憂(飲み込んでくれてる……!)

憂「よ、よーし! がんばろっ!」フーフー

――――

 プルルルルッ ツッ

梓『なに、憂……』

憂「梓ちゃん、今すぐ私の家に来てくれない?」

梓『こんな時間に……?』

梓『お願い、明日行くから今日は勘弁して……』

憂「そんなこと言わずに、お願い梓ちゃん!」

梓『……すー』

憂「寝ちゃったか」プツッ


250 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:20:28.20 ID:6pTbDV7pO [154/159]
 
 ピリリリリッ

憂「あれ? 律さんだ」

憂「こんな時間にどうしたんだろ……」ピッ

律『もしもし憂ちゃん? 起きてた?』

憂「はい。どうしたんですか、律さん?」

律『あ、えーと……今そこに唯はいる?』

憂「いえ、私ひとりですけど」

律『そっか。それじゃあ話なんだが……なんか唯の様子が変なんだよ』

憂「……」ギクッ

律『なんか急に電話してきて……まあそれはいいんだけど、愛してるとかいっぱい言ってきて……』

律『電話口にキスとかしてくるんだよ。怖くて切っちまって……』

律『なあ、憂ちゃんから見て唯の様子はどうだった?』


251 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:25:15.38 ID:6pTbDV7pO [155/159]
 
憂「えーっと……律さんに話していいものか……」

律『なにか知ってるのか? お願い、話してちょーだい憂ちゃん!』

憂「……律さん、たとえば澪さんが妄想の中で律さんのことめちゃくちゃにしてたらどう思います?」

律『な、なんの話だよ!? ってぇ!』ガン

憂「たとえ話ですよ。それでも澪さんに嫌悪感は抱きませんか?」

律『まあ、澪なら……』

憂「お姉ちゃんでしたら?」

律『う……なんていうか、びっくりするな』

憂「梓ちゃんでは?」

律『ギャップがあってすごくイイな』

憂「和さんは?」

律『う、うーん……ちょっとまずいかな』


252 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:30:25.57 ID:6pTbDV7pO [156/159]
 
憂「でしたらこの話はできません」

律『くっ』

憂「まあ、明日の学校でお姉ちゃんに話を聞けば、だいたいの状況はわかると思います」

律『そうだな、そうするよ。遅くに悪かったな、憂ちゃん』

憂「いえ、お役に立てなくてすいませんでした」

 プツッ

憂「そういえば学校か……これもまずいかも」

憂「どうか他のお姉ちゃんたちが学校に行きたがりませんように……」

憂「……ありえないか」

憂「説得する手立てを考えないと……」


253 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:35:13.41 ID:6pTbDV7pO [157/159]
 
憂「私もそろそろ寝ないと……」ノビーッ

憂「あ、その前にお風呂か……」

憂「お姉ちゃん衆はもうみんな寝たのかな」ガチャ

唯「……ういー」ムニャムニャ

唯「う……ひっぐ……りっちゃん……」グスグス

唯「……」

憂「……あくまでそこが自分のベッドなんだね」

唯「いっぱい集まってきちゃって。唯ちゃんたち見てるとなんか眠くなるよ」カリカリ

憂「あ、ニートのお姉ちゃん。勉強中だったんだ」

唯「一浪しただけでニート!?」ハウッ

憂「ごめん、便宜上……」


254 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:40:41.98 ID:6pTbDV7pO [158/159]
 
憂「あれ? でも一人足りなくない?」

唯「あー、子連れの唯ちゃん?」

憂「そうそう」

唯「ミルクの時間だって言ってたよ。まだ下にいるんじゃないかな」

憂「そっか。ありがとう」

唯「いえいえー」スチャ カリカリ

憂「あっ、お姉ちゃん眼鏡かけてるの? かわいいね!」

唯「ほんと? 似合わないかなって思ってたから、嬉しいな」ニコ

憂「なんかドジッ子委員長って感じ!」

唯「……はは、そうでしたか……」カリカリ

憂「じゃあ私、下のお姉ちゃんの様子見てくるね」

憂「あんまり無理しすぎないで、早く寝てね? お姉ちゃん」

唯「うん。おやすみ憂」


255 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:45:23.44 ID:6pTbDV7pO [159/159]
 
 居間

憂「おねえちゃーん? そろそろ寝たら……」ヒョコ

唯「あっ」ピクン

憂「……」

唯「ち、ちがうよ? 母性本能がはたらいただけだからね?」

憂「……」

唯「ちっちゃいころの憂を思い出しちゃって……」

唯「ほら、憂も子供の時こうしてあげると泣きやんだからさ」

唯「へへ……おかげで小学校入るまでお姉ちゃんのおっぱい欲しがって困っちゃったけどね」デヘヘ

憂「そ、そうだったっけ」

憂(そんな設定はなかったと思うけど……嘘を言ってる目じゃないよね)

憂「そういうことなら、ちょっとくらい……やってあげてもいいと思うよ」

257 名前:>>256 >>241とか>>1の2話参照[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:00:12.03 ID:zfJwbUoUO [1/192]
 
唯「えへへ、そうかな……でも、やっぱあの頃とは違うね」

唯「ちょっとだけ……気持ちよくなっちゃうから。やめとくよ」

憂「お姉ちゃん……」ムラッ

憂「も、もう! 変なこと言わないでよ!」

唯「ご、ごめんなさい……」

唯「……っ」プルプル

憂「お姉ちゃん? どうしたの、大丈夫!?」

唯「な、なんでも、ないから……」ガタガタ

憂「なんでもないわけない……ベッドは……空いてないんだ、じゃあ私の部屋に……」

唯「う、うい……その前に、赤ちゃんをベッドに……」カタカタ

憂「うん……わかった」スッ


259 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:05:19.77 ID:zfJwbUoUO [2/192]
 
 憂の部屋

唯「……はぁー」グッタリ

憂「もう平気?」

唯「うん。落ち着いてきた」

憂「……」

憂(お姉ちゃん、きっとあの時のトラウマがまだ残ってるんだ)

憂(刺激しないようにしなきゃ……)

唯「ごめんね憂……だめなお姉ちゃんで」

憂「言ったでしょ。それでもお姉ちゃんのこと大好きだって」

唯「……でも、私が持ってる大好きって気持ちとは違う」

憂「……」グッ


260 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:10:08.43 ID:zfJwbUoUO [3/192]
 
唯「私たちは姉妹なんだし」

唯「私がこの気持ちを捨てなきゃいけないんだよね?」

憂「……そしたら、お姉ちゃんが可哀想だよ」

唯「でも、許されないことだから」

憂「そんなこと言ったって、現にお姉ちゃん、こんなに苦しんでるじゃん……」

唯「私は大丈夫。憂と一緒なら平気だよ」

憂「……だめ。そんな悲しい笑顔じゃ、だめ」

唯「……」

憂「お姉ちゃんが平気でも……お姉ちゃんに我慢させちゃう私は嫌だよ」

憂「私はお姉ちゃんのためにいるの」

唯「……憂?」


261 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:15:11.53 ID:zfJwbUoUO [4/192]
 
憂「お姉ちゃんのこと、大好きだよ」

憂「ほかの平沢憂のことは分からないけど」

憂「私はお姉ちゃんが大好き。お姉ちゃんの気持ち、一方通行じゃないよ」

唯「……憂、やだよ……私また……」

憂「私の気持ち、信じていいよ」

唯「憂、ごめん! 私、また憂に無理させちゃってるよね……?」

憂「無理してるのはお姉ちゃんだよ」ギュ

唯「っ……」ビクッ

憂「私も、お姉ちゃんの気持ち……全部分かるわけじゃないけどさ」

憂「お姉ちゃんには私の気持ち、もうちょっと分かってほしいよ」

唯「……うい、ほんとなの……?」


263 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:20:32.91 ID:zfJwbUoUO [5/192]
 
憂「前にも、似たような状況あったよね」

唯「うん……」

憂「どうして私、あんな手段を選んだと思う?」

唯「……」カアッ

憂「心の中に……お姉ちゃんとそうなりたいって気持ちがあったからだよ」

憂「私、嘘や演技はあんまり上手じゃないんだ。詰めが甘いっていうか」

唯「憂っ」

憂「わっ」ドサッ

唯「憂の言葉、信じちゃうからね!」ハァッ

憂「うん。信じて、お姉ちゃん!」スゥッ

唯「……ん」チュ

憂「んぅ」チュプ

憂(……私、間違ってるのかな……)


265 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:25:16.49 ID:zfJwbUoUO [6/192]
 
 翌朝

憂「……」

唯「んー……パトラッシュ、そこはだめだよ……」ムニャムニャ

憂(これでよかったんだよね……?)

憂(これでもう、このお姉ちゃんはしがらみに縛られずに、奔放なお姉ちゃんになれるはず)

憂(……なのに、この罪悪感はなんなのかな……)

唯「だめぇ……そこはおしっこするところなのに……」ムニャムニャ

憂(……何なのかな、だって。分かってるくせに)

唯「まぁ便器だけどな!」ピーン

憂「お姉ちゃん、起きるよ」

唯「はーい」


266 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:30:25.21 ID:zfJwbUoUO [7/192]
 
憂「はい、お姉ちゃんたち起きて起きて」パンパン

憂「もう朝ごはんできてるよ!」

唯「おはよう……うー、やりすぎちゃった……」フラフラ

唯「うー、目が痛いよう……」

唯「おはよ、憂」ニコッ

憂「おはよ」ニコ

憂(お姉ちゃんが増えて、心なしか本物のお姉ちゃんがしっかりしたように感じるな)

 ドタドタ

憂「さてと……」

唯「……」

憂「ふー、ふー」

憂「……」モグモグ

憂「……」モグモグ


267 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:35:39.24 ID:zfJwbUoUO [8/192]
 
憂(ちょっとイヤだけど……れんげに出して)ベッ

憂「はい、お姉ちゃん起きて、口開けて」グッ

唯「……」

憂「……あーんっ」

唯「……」タラッ

唯「うぶ」ゴプッ

憂「ああっ、吐いちゃった」アセッ

憂「と、とりあえずゴミ箱に……」サッ

唯「おえー」ボタボタ

憂「大丈夫、お姉ちゃん?」スリスリ

唯「……」


268 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:40:53.46 ID:zfJwbUoUO [9/192]
 
憂「はい、お水飲んで」クイッ

唯「……」ビタビタ

憂(しょうがない、昨日みたいに……)チャプ

憂「ん」チュー

唯「んー♪」コクコク

憂(何このかわいい生物)チュッ

憂(なぜ口移しなら飲み込んでくれるのやら、その理由が分からない)モグモグ

憂(……純ちゃんに訊いたら分かるかなあ。なんとかしてもらわないと)モグモグ

憂「……ん」トロッ

唯「……」コクンッ

憂(嚥下するお姉ちゃんかわいい!)チュッ

憂(……なんでキスしちゃうかなぁ、ここで)


269 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 00:45:39.06 ID:zfJwbUoUO [10/192]
 
憂「みんなはお留守番!」

唯「じゃあ私、図書館で勉強してくる!」

憂「できれば家で勉強してほしいんだけど……」

唯「赤ちゃんは私にまかせて!」フンス

憂「う、うん。お願いねお姉ちゃん」カアッ

唯「ねえ憂、私りっちゃんに会って話がしたい!」

憂「えーっと……」

唯「お願いっ!」

唯「うい、私代わってもいいよ」

憂(このお姉ちゃんを閉じ込めておいても、普通に脱出して律さんに会いに行きそうだなあ)

憂(律さん、ごめん)

憂「それじゃあ、ふたなりのお姉ちゃんが学校、他のお姉ちゃんは留守番でいい?」

唯唯唯唯「ラジャーっす!」ビシッ


271 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:00:12.51 ID:zfJwbUoUO [11/192]
 
 2年教室

憂「はぁ……」

梓「憂、昨日はごめんね」

憂「ううん、いいよ……あんな時間に電話しちゃってごめん」

梓「それより、なんか疲れてるみたいだけど……」

純「おハロー」

憂「純ちゃんのせいだよ」ジロッ

梓「なんだ。純のせいか」ジロッ

純「ごめんなさい」


273 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:05:15.23 ID:zfJwbUoUO [12/192]
 
――――

純「唯先輩が増えた?」

憂「うん。うじゃうじゃと」

梓「まあ1人見かけたら100人はいるっていうしね」

憂「そんなに増えてないよ?」

純「ストーカー被害者みたいなこと言わないの」

憂「お姉ちゃんはもともと居たのを含めて5人いるんだ」

憂「見た目の違いはほとんどないけど、性格が全然違くって」

憂「いや、性格というよりは心持ちとか、置かれた状況とかかな。とにかく、話してれば見分けはつくの」

純「ふむふむ」


274 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:10:19.22 ID:zfJwbUoUO [13/192]
 
憂「まず、もともとのお姉ちゃん」

憂「大学目指して一浪中の真面目なお姉ちゃん」

憂「まだ赤子の妹を連れた、トラウマ持ちのお姉ちゃん」

憂「眠ったまま目を覚まさない、それでもかわいいお姉ちゃん」

憂「二言目には『りっちゃん』で私に対して一歩引いてるお姉ちゃん」

梓「うわぁ……涅槃だね」

純「つーか……それってまさか?」

憂「うん。昨日純が読ませてくれたお話の中のお姉ちゃんだと思う」

純「……うーん。どうしてこうなった」

梓「それより、今日の学校はどうしたの? まさか全員連れてきたりしてないよね?」

憂「まさか。一人だけだよ。でもまあ、今頃お姉ちゃんの教室は大変なことになってると思うけど」

梓「ああ、うん、最悪の事態なんだね。分かった」


275 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:15:37.81 ID:zfJwbUoUO [14/192]
 
憂「まあ、お姉ちゃんも律さんも深刻そうだったし……」

憂「強引かもしれないけど、しっかり解決してもらわないと!」

梓「はぁ。今日部活行きたくないな……」

純「なーに言ってんの梓。あんたは部活に行けないの」

純「私の作品を読まない限り二人は帰れないんだよん?」

梓「うっわぁ。憂がリクエストなんてするから」

憂「へへ。ごめんね梓ちゃん」

純「まあ1作品だけだし、時間はとらせないよ」

梓「しょうがないな……何もかも気が進まないけど、わかったよ」


277 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:20:15.64 ID:zfJwbUoUO [15/192]
 
 昼休み、2年教室

 ガラッ

律「どーも……憂ちゃん、いる?」

憂「あっ、律さん」

律「……」チョイチョイ

憂「……?」

 人気のない廊下

憂「あの、律さん、どうしたんですか?」

律「いや、何だ……いったい何がどうなったんだ?」

憂「えーっと……」

律「頼むからはぐらかさないでくれ。それどころの事態じゃないって、わかってるよな?」ガシッ

憂「ひゃいっ!」


279 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:25:09.19 ID:zfJwbUoUO [16/192]
 
――――

律「っー」ズキズキ

律「すると、こういうことか……」

律「純ちゃんの創造した唯がポコポコ生まれちまってると」

律「おまけにうち一人が物語の中で私とくっついちまって、見てきた通りのベタベタに、か」

憂「はい……」

律「今のところ、対策は?」

憂「ごめんなさい。どうしてこうなったかも分からなくて……」

律「……もしかしたら、ずっとこのままかも?」

憂「今の時点では、可能性は十分にありますが……」

律「そっか……ありがとな、話してくれて」


280 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:30:14.39 ID:zfJwbUoUO [17/192]
 
律「唯との事は、しっかり考えてみるよ」

憂「律さん……」

律「まあ、なんだ? 人が作った人格とはいっても、あれだけ好かれると邪険にしづらいっていうか」

律「姿かたちもまるっきり唯だしな……だから、あの唯との付き合い方、真剣に考えようと思う」

憂「そうしていただけると、お姉ちゃんも喜ぶと思います」

律「ん、そんじゃな。お昼中に呼び出して悪かったよ」スタスタ

憂「いえ、気になさらず」

憂(これで目下の問題は、あのお姉ちゃんだけかな)


282 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:35:25.41 ID:zfJwbUoUO [18/192]
 
 放課後、2年教室

 ポイッ

梓「憂にリクエストされた通りに書いたから、設定とかは深く考えないでね」

梓「うわっ、逃げ道作った……」

憂「まあ、いいんじゃないかな。純ちゃんも批判とか怖いんだね」

梓「それより何で廊下に行ったの、あいつ」

憂「さあ……ま、とにかくよもよもっ!」

梓「なんか釈然としない……」

梓「というか、これ読んだらまた唯先輩が増えるんじゃ」

憂「大丈夫だよ。うじゃうじゃしてるお姉ちゃん、かわいいもん」

梓「まあ、憂がそれでいいならいいけど……」


283 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:40:22.45 ID:zfJwbUoUO [19/192]
 
 ポイッ

梓「憂がタイトルコールですぜ」

梓「これもいらない気がするけどなぁ……」

憂「まあ、一つの儀式みたいなもんじゃないかな」

憂「やんないとダメな気がするよ」

梓「まあ、大した手間ではないからいいんだけど」

憂「オホン! じゃあいくね」

憂「『お姉ちゃん大好き!』」

梓「いや違うだろ」

憂「だって言いたくなったんだもん」ブーブー

梓「どんどん唯先輩に似てきたね」

憂「『お姉ちゃんって呼んでいい?』」キランッ

梓「なんでこの一言で機嫌をよくするんだろう」


284 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 01:45:31.26 ID:zfJwbUoUO [20/192]
 


 憂「お姉ちゃんって呼んでいい?」




286 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:00:24.57 ID:zfJwbUoUO [21/192]
 
憂「……」ガチャ

 私は自分の家が嫌いだ。

憂「……」バタン

 だから、「いってきます」も「ただいま」も言わない。

 そこが私の家であってほしくないから。

 けれど、居間につづくドアを開くと、雑誌を読みふけっていた彼女は顔を上げて、私の方をちらりと見た。

唯「おかえり」

 そして、気だるそうな声で、ここはおまえの家だと主張した。

憂「……ただいま」

 気圧されたように、私の声が居間の空気を震わす。

 それきり、時が刻まれる音と雑誌のページをめくる音以外はしなくなった。

 ――やっぱり、この家は嫌いだ。


287 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:05:30.92 ID:zfJwbUoUO [22/192]
 
憂「……」カリカリ

 私は今、無謀な勝負を挑んでいる。

 だがこの勝負に勝たなければ、私はまたこの家でフラストレーションを溜めていかなければいけない。

憂「……っ」ゴシゴシ

 また間違いが見つかる。

 半ページほど並んだ数式をごっそり消していく。そもそものやり方から間違っていた。

 このペースでは間に合わない。年間カレンダーに印しつけられた試験の日を見つめ、溜め息を吐く。

 コンコン

 再び机に向かおうとした私の襟首を、ノックの音が引っ張り上げた。

唯「晩ご飯作ったけど」

憂「そう」

 簡潔に、返答になっていない言葉を返すと、問題集を閉じる。

 面倒だ。


288 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:10:36.66 ID:zfJwbUoUO [23/192]
 
 居間

憂「……」カチャ

 食器と箸のぶつかる音がやけに大きいけれど、それもこの家ではごく一般的なことだ。

 わざわざ気にかける必要もない。

 だけれど、今日はいくらかその音が大きい気がして、私は顔を上げた。

憂「ねぇ」

 姉が大きめのコロッケを一口に頬張っていた。

唯「……あに、憂」モッシャモッシャ

憂「なんで今日は家にいるの?」

唯「ほりゃあ」ゴクンッ

唯「たんに恣意だよ」

憂「……そう」


289 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:15:21.44 ID:zfJwbUoUO [24/192]
 
唯「憂、わかってないでしょ」

憂「悪い?」

唯「高認受けるんじゃないの? この程度知らなきゃまずいよ」

憂「……今やってるの、数学だから」

唯「あと2ヶ月なのに手つかずの教科があるんだ」フフ

唯「まあ、期待してるから。勉強頑張って」

 茶碗にまだご飯が残っていたけれど、

 私はそっと箸を置いて、自分の部屋に戻った。

唯「……」

 居心地が悪いなんてものではなかった。


290 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:20:19.23 ID:zfJwbUoUO [25/192]
 
 憂の部屋

憂「……っ!」ゴン

 壁に打ち付けた拳骨に、衝撃が返ってくる。

憂「くっそ……っ!」

 悔しさがぶくぶくと膨れてくる。やり場のない怒りでもあったのかもしれない。

 私は姉のことを、学の無い人間だと完全に見下していた。

 なのに、その姉に小馬鹿にされた。

 さらに事実、姉が口にした言葉は私の知らない言葉だった。

憂「……やる気でない」

 口に出してみると、それが正当な理由として評価された気がした。

 お風呂は朝入ることに決めて、私はベッドに飛び込んだ。


291 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:25:58.56 ID:zfJwbUoUO [26/192]
 
――――

 『ドンッ……』

唯「ぷっ」クス

唯「そうやって、鬱屈するものを溜めこむばかりで」

唯「昇華させることができないから、憂はだめなんだよ」

唯「……」フー

唯「ま、別にそのままでいいけどね……」

唯「……風呂入るっかなー」ノビノビ

 スック

 スタスタ ガチャ

唯「やっぱオフは気楽でいいね」スルッ

唯「毎日オフならいいのに……はは、それじゃ困っちゃうか」パサッ


292 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:30:28.21 ID:zfJwbUoUO [27/192]
 
 浴室

唯「はぁー」チャポン

唯「すぅー……ふっ!」ザブン

唯「……」ブクブク

唯「……」シーン……

 お湯を張ったお風呂に頭まで浸かって、静寂が来るまで身をたゆたえる。

 母親の胎内を思い出す。記憶には無いけど、確かに私のいた場所。

 今となっては、存在しない場所。

唯「……」

唯「……」ユラッ

 お風呂場には、ひとつトラウマがある。

 ここから全部が狂ったんだ。……私の不注意で、この家は瓦解した。

唯(お母さん、私の懺悔を聞いてくれる?)


294 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:36:10.18 ID:zfJwbUoUO [28/192]
 
 小学校2年生の夏。

 このお風呂場で、転倒事故が起こった。

 単なる転倒事故で済めばよかった。そんな些細なことだったら、覚えてもいないだろう。

 当時の私は、よく転ぶドジだったらしいし。

 ただ、すっ転んだ私が落ちて行った先に、まずいものがあった。

 水色の、プラスチックのコップだ。

 そのコップは、ハブラシとかの小物をまとめて立てておくために、そこに置かれていた。

 お父さんのヒゲソリと、お母さんのカミソリも、一緒に立てられていた。

 お父さんは几帳面だから、T字のヒゲソリにもきちんとキャップをつけていた。

 けれどお母さんのカミソリは刃がむきだしのまま置いてあって。

 私のお尻は、ちょうどお母さんのカミソリのもとに、一直線に落ちてった。


295 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:40:44.22 ID:zfJwbUoUO [29/192]
 
 ……その後はもう、阿鼻叫喚だったのをぼんやり覚えている。

 私の大事なところにカミソリが突き刺さって、けっこう深く切れちゃって、

 縫合処置を施された、という話を起きてからお母さんに聞いた。

 それを聞いて、私はまた気を失って。

 ……それが最後に見た、お母さんの生きた姿だったね。

 その夜、病院で寝ていた私は、救急車に付き添ってきた憂にその事件を聞かされた。 

憂「おかあさんがね、ころされたの」

 憂は、今日のテレビアニメのあらすじを語るみたいに、目をキラキラさせていた。

 まだ子供だから、事を理解できていないんだ。

 最初はそう思っただけだったけど、話を聞いているうちにおかしくなってきた。

憂「あの、ギュイーンってやつでね」

唯「ドリル?」

憂「そうそう。それで、おかあさんはここをギュイーンってされたの」パフパフ


296 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 02:45:13.44 ID:zfJwbUoUO [30/192]
 
唯「ねえ、うい」

憂「それから、ここもギュイーンってされたんだよ」ポンポン

唯「うい、それってお父さんから聞いたの?」

憂「ううん。おとうさんのこーぐばこからもってったのバレたら、おこられちゃうもん」

 微妙に話が噛みあってなかったけれど、知りたいことは知ることができた。

唯「ういはなんで、ドリルを持っていったの?」

憂「かたきうちだよ!」

唯「だれのかたきうち?」

憂「おねえちゃんだよ。おかあさんのせいでケガしたじゃん!」

唯「……そっか。うい、ありがと」ナデ

憂「えへへ……がんばりました」


298 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:00:19.18 ID:zfJwbUoUO [31/192]
 
 その日から、私の行動はすべて憂に基づくようになった。

 警察の人に対して、お父さんが一度だけお母さんに暴力を振るった日のことをあげつらい、

 さもお父さんが、日ごろからお母さんに暴力を振るっているかのように脚色した。

 その時のケガの痕がお母さんの顔に残っていたことも、私が気付かせた。

 やがて、お父さんは犯行を自供した。

 この場合自供と言うのかはわからない。そもそも犯行すらなかったのだ。

 とにかく、お父さんは憂の罪をかぶって、しばらくした後刑務所に入れられた。

 きっとお父さんも、誰がお母さんを殺したのか知っていたんだと思う。

 というか、多分その状況を目撃してたんだ。

 ……そのうち、会ったことのない親戚のおばさんが、私たちを引き取りたいと申し出てきた。

 だけれど、私はその申し出を頑なに断った。

 もしも、それでもう一度私に何かあったら、今度はこのおばさんが殺される。

 その時にはもう、かばってくれるお父さんはいない。

 となると、いずれ憂が人を殺したことが周辺に認知されることになる。


299 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:05:42.70 ID:zfJwbUoUO [32/192]
 
 だったら、多少辛くてもこの親戚のおばさんの家に行くわけにはいかない。

 私が必死に頑として断り続けると、やがておばさんは、引き取ることは諦めてくれた。

 その代わり、毎月まとまったお金が届くようになった。

 私たちは、その一部を幼馴染の和ちゃんの家に送る代わりに、
食事など、生活に必要なことを和ちゃんの親に手伝ってもらった。

 もちろん、いつまでも甘えている訳にもいかないから、自分たちでこなせる家事は率先して覚えていった。

 そうして私たちは、他の子たちよりも早く、自分たちで家事をこなせるようになっていった。

 私も憂も、家の事はなんでも出来るようになった小学6年生の夏。

 私は突発的にギターに興味を持った。

 あるギタリストのドキュメンタリーを見た影響だったんだと思う。

「いいかげん家族に迷惑かけたくなかったから。だから唯一自信のあるギターで食っていくことにしたんです」

 彼の語ったその言葉が、心に響いて。

 翌日から、私は自分のための生活費を切り崩し始めた。


300 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:10:47.28 ID:zfJwbUoUO [33/192]
 
 アイスもお菓子も新作のゲームも我慢すると、お金はおもしろいほど貯まっていった。

 秋が終わるころには、ちょっと背伸びしたギターも買えそうなほどの貯金ができていた。

 私は一人、楽器屋に赴き、欲しいギターを探しまわった。

 そしてその日、私はレスポールに一目惚れをした。

 家に駆け戻ってお金をとると、また店に舞い戻って即、購入。

 小学生の感性としか言いようがないけど、そのギターに「ギー太」と名前を与え、抱きしめて帰った。

 ……はい、アンプとかのことすっかり忘れてました。

 もともとこれだけお金を貯めたのは、いっぺんに充実した設備を整えたかったからであって、高いギターを買うためではなかったのに。

 さて、私がアンプに繋いだギターの音を聞くのはそれから少し後になるけれど、それから私は毎日ギターを弾いていた。

 少しずつ上達していくのが嬉しくて、独学で勉強しながら、毎日練習をした。

 そして、私が中学生になってしばらくすると、憂の様子がおかしくなりはじめた。

 いや、気付いたのがその頃であって、本当はもっと昔から歪んでいたのかもしれない。

 鈍い私を歪みに気付かせる、大きな出来事があった。

 憂が2日間、家出をした。


301 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:15:20.59 ID:zfJwbUoUO [34/192]
 
 「ごめんなさい、お姉さん」

 「そういう事情だったとは知らなくて……」

 憂を匿っていた友達の女の子は、深々と頭を下げた。

 謝られても困る。そもそも私は腹を立てていない。

 「ほら憂、今日はもう帰んなって」

憂「……そだね」

 憂も迷惑をかけてしまったという自覚があったのか、素直に友達の言うことを聞いて、家に帰った。

唯「ねえ、憂」

憂「……なに?」

唯「どうして、家出なんてしたの?」

 憂はふっと息を吐いた。冬の深まったころである。憂の吐いた息の形に、白い霧が立ちのぼった。

 そして、それきり憂の口は言葉を紡がなかった。


302 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:20:24.49 ID:zfJwbUoUO [35/192]
 
 家出をした理由、問い詰めた方がよかったんだろうか。

 未だに分からない。

 肩にかけたバッグのベルトがギシギシと軋んでいた。

 一体、何日泊るつもりだったんだろうか。

 その疑問は浮かびあがり、ふわふわと空中をさまよったあと、また私の頭の中に戻ってきた。

 結局私は憂に何一つ尋ねられないまま、何の言葉もかけられないまま、家に到着してしまった。

憂「……あのさ」

 自分の部屋に戻る前、憂はぽつりと言った。

憂「迎えに来てくれて、ありがと」

唯「……ううん。帰って来てくれてありがとう」

 私がそう答えると、憂はくすぐったそうにはにかんだ。


303 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:25:21.06 ID:zfJwbUoUO [36/192]
 
 それからしばらくは、憂はおとなしくしていた。

 夕食の席で共通の話題を出して笑い合う、なんてこともあった。

 それでも、私がギターの話題を出すと、途端に食卓の空気は冷たくなった。

 私はそんな憂の態度に困り果てながらも、ギターの練習だけはやめられないでいた。

 高校に行ったら軽音楽部に入ることも、すでに決意していた。

 ギターと憂と、どっちが大事なのか、って訊きたいと思う。

 当時の私なら、それを真剣に考えたかもしれない。

 だが今の私なら、とんだ的外れだと鼻で笑うだろう。

 ギターは手段。憂は目的。大事ということの方向性が違う。 


305 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:30:57.08 ID:zfJwbUoUO [37/192]
 
 明確な回答を持たない疑問を抱えながら、私は日々を憂と過ごして。

 そして私は中学を卒業し、高校に入った。

 私立桜ケ丘女子高校。少し前から、音楽家たちの間では有名になった名前だ。

 というのも、この学校の軽音楽部はかなり高いレベルを持っているらしい。

 現在は解散しているが、数年前にもメジャーデビューするバンドが生まれている。

 多少偏差値が高い名門校ではあるが、そのくらいは勉強をすればどうとでもなった。

 勝負はここからなのだ。私はなじみのギターを背負い、軽音楽部の戸を叩いた。

唯「失礼します!」ガチャ

 誰もいなかった。

 バタン

 ダッダッダッ ガチャ

唯「……廃部?」ハァハァ

さわ子「ええ。まあ今月中に4人入部しなければ、だけど」


306 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:35:44.99 ID:zfJwbUoUO [38/192]
 
唯「わ、わかりました。あと3人集めればいいんですね?」

さわ子「そうね。まあうちの軽音部の名前があれば、勝手に部員なんて集まってくるけどね」ズズ

唯「そうですね。それじゃあ早速部員集めに奔走させていただきます」

さわ子「あわただしい子」クスッ

 まとめると。

 やる気のない顧問のせいか、軽音楽部はすっかり廃れていたということで。

 部員1人のただれた部活なんてそうそう入ってくれる人はいないわけで。

 色んな人に話しかけたけれど、みんな入部には難色を示した。

 結局入部希望者を一人も集められないまま二週間が経って、私は久しぶりに音楽室を訪ねてみた。

紬「あら、入部希望の方かしら?」

律「おー! ついに来たかぁ!?」ガタン

澪「あれ? どっかで見覚えが……」

 なんかいっぱいいた。そういや入部届けって出してなかったね。


308 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:40:16.35 ID:zfJwbUoUO [39/192]
 
律「ギターがすっごく上手いんだって?」ズイッ

唯「一応、それなりには……。4年間毎日練習してるんだけど」モジモジ

 なぜ私が新入部員の立場なのだろうか。ちやほやされるのは嫌いじゃないからいいんだけど。

律「すげー! ちょっと聞かせてみてよ!」

唯「ん、わかった」

 私は中学1年生のときに自作した曲を弾くことにした。

 作曲した当時では弾けなかったくらい難しい曲だが、今では歌いながらだって弾ける。

唯「Let's Try~♪ 無口すぎる~君 饒舌に変えーてあげーるよ♪」ジャカジャカ

 『饒舌』なんて言葉、中1なのによく知ってたねって?

 和ちゃんに『寡黙』の対義語を訊いたら、すぐにそう答えてくれたんだよ。

唯「だっれ~にも止められ~ないっ♪」ジャーン

 そりゃもう、思い返して恥ずかしいくらいノリノリで歌ってた。

 人の前で演奏するなんて初めてで、おかしいくらいテンションが上がってた。

 それでも弾き慣れた曲に、ミスは出なかった。


309 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 03:45:30.25 ID:zfJwbUoUO [40/192]
 
唯「ありがとうございましたっ!」ペコリ

澪「は……はは……」ヒクヒク

律(カスタネット叩いてたんだ……)

唯「どうだった……かな?」

律「すげぇよ唯!」

紬「……唯ちゃんがいれば、またこの学校からメジャーデビューするバンドが出るかもしれないわね」

澪「ハハッ、それはさすがに……ない、とも言い切れないな」

 みんな、ちょっと潤んだ瞳で私を見つめていた。

律「よーし!」

 りっちゃんが私たちの肩を抱いて、小さな円に引き寄せた。

律「桜高軽音部、ここに結成だ!」

唯澪紬「オー!」

律「夢は武道館ライブ!」

唯澪紬「オー!」


311 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:00:30.74 ID:zfJwbUoUO [41/192]
 
 それから私たちは、武道館ライブという大きな目標に向かって始動した。

和「そう、軽音部は無事存続したのね」

唯「したというか、してたというか……まあ良かったよ」

和「そうね。生徒会としてもできるだけ支援させてもらうわ」

唯「ありがと和ちゃん!」

和「いいのよ。私も唯のギターは世間に通用するレベルだと思ってるわよ?」

唯「そうかなー」デレデレ

 私のギターはともかくとして。

 私同様、桜高軽音部の名に惹かれてきたという他の3人のメンバーの腕も、なかなかのものがあった。

 ちょっと気を抜けば、もうここで止まってもいいんじゃないかと思ってしまうくらい。

 けれど、他のみんなが引っ張ってくれた。だから私も、目標に向かって走っていくことができた。

 ゴールは遠い。しかしスタート地点も遠くなっていた。

 スタート地点から、冷たい視線が射てきている気がした。


312 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:05:21.76 ID:zfJwbUoUO [42/192]
 
 その話は、思っていたよりもずっと早く舞い込んできた。

和「あなたたちの演奏を聴きたいって人がいるの」

唯「へー、誰?」

和「TKミュージックコーポレーションの斎藤って人」

唯「……なっ!?」ガタッ

唯「てぃてぃてぃ、てぃーけーって、あのTK!?」

 TKMCは、国内有数のシェアを誇る音楽事務所だ。

 少数精鋭に絞った営業戦略で質の高い音楽を提供するため、愛好家には評価が高い。

 もっとも、アーティストの方は鮮度が落ちればすぐに切り捨てられる。故に、ここを嫌う人間も多い。

和「分かってるとは思うけど……TKからアクションを仕掛けてくるなんてめったにない事よ」

唯「でも、なんで私たちに……」

和「桜高軽音部にまだ目を付けてたんでしょうね。……それで、どうするの?」

唯「あ……いちおうみんなに相談してから、かな」

 軽音部の部長は私だったけれど、さすがに一存で決めていい話ではなかった。


313 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:10:22.67 ID:zfJwbUoUO [43/192]
 
 昼休み、みんなを集めて和ちゃんの話を伝えた。

律澪紬「わっほーい!!」ガタン

 はい、決定。

 斎藤さんは放課後すぐに来てくれるということだった。

 はい、放課後。

 いかめしい口髭を蓄えた、グラサンの男が音楽室にやってきた。

 なんかスペインの国家警察にいそうだ。

斎藤「今日はよろしく、皆さん」

 私たちにはまだバンド名がなかった。あえて名乗るとすれば桜高軽音部、なんだろうけど。

斎藤「さて、話はあとにして早速演奏を聴かせてほしいんだが」

唯「はいっ! 私たちのオリジナル曲なんですけど、いいですかっ!」

斎藤「そう聞いているよ。『Don't Say"Lazy"』だったね?」


314 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:15:13.18 ID:zfJwbUoUO [44/192]
 
唯「はいっ! えっと、じゃあいきます! ……りっちゃん」チラッ

律「……」コク

 極限に緊張していた私たちの演奏は、いつもより覇気がなかったように思う。

 しかし演奏終了後、斎藤さんの顔はほころんでいた。

斎藤「なるほど、いいね」パチパチ

 営業スマイル、なんだろうか。私はスカートのすそを握りしめた。

斎藤「ベースの君」

澪「は、はい」

斎藤「ギターの君」

唯「はいっ!」

 斎藤さんは澪ちゃんと私を、腕一本ずつ使って指差すと、

斎藤「歌の役割、交代」クイッ

 両腕を交差させた。


315 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:20:12.26 ID:zfJwbUoUO [45/192]
 
紬「……」ジッ

斎藤「……それでもう一度やってみてくれないかな?」

唯「澪ちゃん……」

澪「わかりました。……唯、頼んだぞ」

唯「う、うん。任せて! 澪ちゃんも頑張って!」

 斎藤さんに言われた通り、私と澪ちゃんはボーカルを交代して、再度演奏の準備に入る。

 りっちゃんに目線を送る前に、私はちょっと澪ちゃんを見た。

澪「……」

 どこか安心しているような表情に見えた。

 同時に、私の心を高揚感が突き動かしだした。テンションが上がってくる。

唯「行くよみんなっ! りっちゃん!」

律「おうっ!」


316 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:25:31.09 ID:zfJwbUoUO [46/192]
 
唯「だからたまに~休憩しちゃうんです♪」

 ジャジャッ

斎藤「……ふふっ」

 演奏が終わるなり、斎藤さんは小さく笑った。

斎藤「うん、良くなったね。実によくなった」

律「……」ギリ

 りっちゃんが奥歯を噛んだ。その気配を敏感に察知した斎藤さんが、両手を振った。

斎藤「別にベースの子が歌が下手というわけではない」

斎藤「だが君はまだ、メインボーカルとして歌うことに照れがある。違うかな?」

澪「それは……確かに、そうです」

斎藤「そしてギターの君は、ずいぶん盛りあがってたね」

唯「へ? そ、そうでしたか?」

 斎藤さんは嬉しそうに頷く。


317 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:30:21.44 ID:zfJwbUoUO [47/192]
 
斎藤「だからこそ交代する必要があった。今の状態では、だけどね」

斎藤「……それでも、十分な芽がある。ギターの子、平沢くんにはメインボーカルとして修業が必要かもしれないが」

斎藤「ぜひ、うちの会社と一緒にやってほしい」

 どっかーん、とりっちゃんが叫んだ。

唯「はいっ、ぜひ!!」ダキッ

 一緒にやろう。その言葉が胸をしめつけるほど嬉しくて、私は斎藤さんに抱きついた。

澪「よろしくおねがいしますっ!」ギュ

紬「うふふ♪」ニコッ

斎藤「ま、まあ詳しい話はまた今度としよう。また私の方から連絡させてもらうよ」

紬「斎藤ったら照れちゃって……」クスッ

 後から知ったんだけど、この斎藤という人はムギちゃんが呼んだらしい。

 TKMCのTKとは琴吹紬のことで……要するにコネを使ったわけだ。

 でも、斎藤さんもムギちゃんとの約束で、正当な評価をしてくれたらしい。

 ムギちゃんのしたことは、チャンスを呼び込んだだけだ。だから私たちも、このことをしばらく黙っていたムギちゃんを責めたりしなかった。


318 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:35:10.11 ID:zfJwbUoUO [48/192]
 
 すこし経って、私のもとに「課題」が届けられた。

和「秋山澪の歌唱法のコピー?」

唯「うん。私たちがデビューするにあたってこなさなきゃいけない課題なんだって」

和「だったら澪が歌えばいいんじゃ……」

唯「澪ちゃんは恥ずかしがりだからだめなんだってー」

和「業界は難儀ね……」

唯「まあすぐ近くにお手本がいるんだし、簡単にマスターしちゃうよ」

和「そうね。唯なら人のコピーくらいはお手の物よ」

 和ちゃんは私を不安にさせないように、簡単に言ってのけた。

 でも、コピーするのはあの澪ちゃんだ。

 澪ちゃんに教えてもらっても、うまくできるかどうかはわからない。


319 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:40:14.92 ID:zfJwbUoUO [49/192]
 
唯「うぃーるしんうった~う~よ~♪」

澪「うーん、そうじゃないんだよなー」

紬「なんかもっと、攻め立てるような感じよね」

唯「あ、セクスィーってこと?」

律「そうそう! やってみろよ唯!」

澪「勝手に決めるな……」カアッ

紬「否定はしないのね」

唯「We'll sing うたうよ~♪」

律「お、ちょっと良くなったな」

澪「少しだけハスキーっぽくして、力入れてみたらどうだ?」

――――


321 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 04:45:40.83 ID:zfJwbUoUO [50/192]
 
 やっぱりそううまくはいかない。

 声質が根本から違うのだ。真似しろと言われても、一筋縄にはいかない。

唯「澪ちゃんの歌い方……クールでかっこいいよね」

 クール、クール。

 私の頭の中をそんな英単語がぐるぐる駆け回りだしたとき。

 その中心で閃くものがあった。

唯「そうだ! キャラ変しよう!」

 いや、変な電波を受信したみたいだった。


322 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:00:04.45 ID:zfJwbUoUO [51/192]
 
紬「キャラ変って何かしら? 唯ちゃん」

唯「イメチェンの性格版だよ」

唯「私、澪ちゃんの歌ってる時のキャラになる!」フンス

澪「方向性は間違ってもないかな」

律「確かに、歌う時だけ違う自分を意識するっていうのは難しいからな」

律「澪は勝手にスイッチ入るんだけど……唯の場合、自分の歌いたい方法じゃないから」

唯「そんなわけでセクスィーでクールでかっこいい唯ちゃんを目指します!」

律澪(絶対無理だろ……)

紬(見てみたいかも……)ポワー

律「ま、普通に歌う練習するのも忘れずにな?」

唯「もっちろん! じゃ、始めよっか!」オー!

澪「唯。クールを目指すんじゃないのか?」

唯「……」


323 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:05:38.10 ID:zfJwbUoUO [52/192]
 
唯「……当然。さっさとやろ」フッ

紬「イイっ! イイわよ唯ちゃん!」

唯「くすっ……ありがと」

紬「ああ……」ダラダラ

澪(……歌ってる時の私ってあんな風に見えてるのか)

律「はいムギ軽く下向いて。ティッシュ詰めるからなー」コネコネ

澪(唯みたいに歌ってみようかなぁ)シュン

澪「……ふっ☆」

律「」ブッ

澪「笑うなぁ!!」ゴツン


325 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:10:38.43 ID:zfJwbUoUO [53/192]
 
律「っつつつ……さて唯、いっちょその雰囲気でやってみろよ」

唯「いいよ。聞かせてあげる……」スゥッ

唯「Please Don't say "You are lazy"♪」

律(……あれ?)パチクリ

澪(確かに私っぽい……)

唯「だってー本当はーCrazy」

澪(それに、唯の眠たげな声の感じも残ってて……)

紬(……エロい!)ボタボタ

律「こらムギ、ちゃんとティッシュ詰めなきゃだめだろ」ギュギュ

唯「……」ハァ

唯「……どうだった?」

紬「汗がエロいわ!」ブシュンッ

唯「セクシーさが出てたんだね。この方向でやっていこう……」


326 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:15:25.33 ID:zfJwbUoUO [54/192]
 
 なんだか不思議なことなんだけれど、
私はその日を境にさっぱり変わってしまった。

唯「ただいま」

憂「……ん」

唯「かわいくない態度だね」

憂「かわいくなくていいよ、別に」

唯「ま、そっか。とりあえずご飯にでもするかな……」

憂「ねえ」

唯「うん?」

憂「さっきの言葉、そっくり返す」

唯「ふぅん……」


327 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:20:12.98 ID:zfJwbUoUO [55/192]
 
憂「何なの?」

唯「キャラ変ってやつだよ」

憂「似合ってないよ」

唯「イメチェンもしたほうがいい?」

憂「……もういい」

 それからというもの、憂とのコミュニケーションがうまくいかなくなった。

 やろうとすれば、元のキャラクターに戻ることはできたんだと思う。

 だけど、私はようやく目視できる範囲内に入ってきたゴールを、虚心坦懐に見つめていた。

 武道館ライブだなんて、普通の高校生バンドだったら夢の中の夢だろう。

 でも私は、桜ケ丘高校の軽音部。

 そして、傘下に音楽事務所もある琴吹系列社長の一人娘を友人に迎え、

 さらに、卓越した技術を持った3人のバンド仲間がいる。

 必ず、ゴールまでいける。


328 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:25:13.57 ID:zfJwbUoUO [56/192]
 
 憂のことを軽視するわけではないけれど、ここまで見えてきたならばやり遂げた方がいい。

 それに、生活費を送ってくれる親戚のおばさんのこともある。

 高校生にもなったのだから、少しくらい恩を返してみてもいいんじゃないか。

 CDが売れたら、今までもらってきたお金の少しでも返したい。

 そんな風に考えていた。

 それだけじゃない。

 私の稼ぎで、憂を養ってあげられるかもしれない。

 そしたら、私は憂に恩返しできるんだろうか。

 あ、でもお母さん、私は恩義を感じてるわけじゃないよ。

 憂が私を大事に思ってくれたから、私もそれに応えられるくらい愛するわけであって。

 お母さんが死んだことが嬉しいなんて話ではないからね。

 そうなんです。


329 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:30:31.57 ID:zfJwbUoUO [57/192]
 
 私は憂に勧められた通り、今のキャラに合うように髪形を変えてみた。

和「……誰?」

 10年来の親友に言われるときつい。

唯「和の知らない平沢唯」

和「ええ、知らないわ」

和「……でも、似合ってるわね」

唯「ありがと」

和「人に向ける態度じゃないわね」

唯「そうかな。じゃあ和に対してはやめる」

和「やめれてないって」

唯「ごめんね。これは崩せないから」

唯「でも、あんまりそっけない態度をとらないように気をつけるよ」

和「ええ、そうして」


330 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:35:48.94 ID:zfJwbUoUO [58/192]
 
 数日後、斎藤さんが私の歌をチェックしに来た。

 まだ期日ではなかったが、中間報告ということだろう。

斎藤「その髪型、カッコいいよ」

唯「そうですか。そう言ってもらえると嬉しいです」

斎藤「デビューしてもその髪型はキープしてほしいね」

斎藤「それじゃ、歌ってもらおうか」

唯「はい」

 私は一番上手く唄える歌を選んだ。

 それでもまだ、まったく十分ではないだろうと踏んでいたのだけれど、斎藤さんの答えは違った。

斎藤「ほとんど完成されているね。それでいて秋山くんになかった堂々とした姿勢や遊び心もある」

斎藤「期待以上だ。……まだ早いと思っていたが、作曲家を急がせないといけないな」

 斎藤さんはそう笑った。この人に任せて大丈夫なんだろうか。


332 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:40:12.49 ID:zfJwbUoUO [59/192]
 
斎藤「あー、ところで平沢くん、少し2人で話がしたいんだが」

律「なにぃ! 枕営業といったら澪だろ!」

澪「違うから黙ってろ!」ゴッ

律「冗談が過ぎたか……」スリスリ

唯「はい、いいですよ」

紬「ふふ、でも唯ちゃん。危なかったら大きな声を出していいのよ?」

唯「ありがと、紬。信頼してるよ」

紬「うふっ」ピュッ

斎藤「では、音楽室を出ようか。話はそこでいい」

 ガチャ


333 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 05:45:22.19 ID:zfJwbUoUO [60/192]
 
斎藤「率直に聞くが……君の家で過去にあった事件、あれを君の仲間たちは知っているか?」

唯「……なぜあなたは知ってるんですか?」

斎藤「すまないが、商売相手の経歴は調べさせてもらう。それで、どうなんだ?」

唯「付き合いがありますから。家に彼女たちを呼んだとき、自然と家庭環境の話になりました」

斎藤「そうか。……君には妹がいるな?」

唯「はい。……憂、ですけど……」ギュ

斎藤「……どうかしたか?」

唯「いえ、なんでも……それがどうかしたんですか?」
 
斎藤「言うまでもなく、君には分かっていることだと思うが……」

唯「っ」グッ

334 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:00:21.59 ID:zfJwbUoUO [61/192]
 
斎藤「……君はこれから恐ろしいほど忙しくなると思う。実家に帰れる機会なんて、ほとんどないだろう」

斎藤「そのとき、君の妹は一人で大丈夫かい?」

唯「……え」

唯「あ、ああ、はい。家事に関しては、ずっと分担してやってましたので、家のことは一人でやれるでしょう」

唯「それに多分、一人だからと言って寂しがるような妹ではないです」

斎藤「そうか……それなら、都心にとる部屋は一人部屋で大丈夫だな」

唯「……はい」

斎藤「わかった、ありがとう……」カキカキ

斎藤「じゃあ、次に会う時は君たちのデビュー曲を持ってくるからな」

唯「あ、帰るんですか? それではまた」

斎藤「うむ……」

 斎藤さんは何か言いたそうにしてから、やっぱり何も言わずに階段を下りて行った。


336 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:05:31.40 ID:zfJwbUoUO [62/192]
 
唯「ふー」ガチャ

律「あれ、唯。斎藤さん帰っちゃったのか?」

澪「律がたちの悪い冗談言ったからだな」

律「いやー、斎藤さんは大人だから大丈夫だって」ヒラヒラ

澪「まったくもう……今度会ったとき、いちおうでも謝っておけよ」

紬「唯ちゃん、話ってなんだったの?」

唯「大したことじゃなかった。ほら、私たち東京が本拠地になるわけだけど」

唯「一緒に憂も連れていくか……っていう話」

律「ああ、そういえば唯の家って……それで、連れてくんだよな?」

唯「ううん。置いてくよ」

律「そりゃそうだよなー! たった一人の家族だもんな!」バシバシ

唯「痛い、律」


337 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:10:06.19 ID:zfJwbUoUO [63/192]
 
律「……あれ?」

唯「うん、置いてくよ」

律「……マジ?」

唯「置いてく」

律「え、なんで……」

唯「なんで?」

 そんなこと考えてなかった。

唯「どうしてだろう……なんであんな風に答えたんだろう」

澪「おい……今からでも遅くない、斎藤さんに言って撤回してもらえ」

唯「ううん、答えが間違ってたんじゃない。どうしてこの答えが出たのかわからないだけ」

紬「……唯ちゃん」

唯「ごめん、ちょっと考える」


338 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:16:11.10 ID:zfJwbUoUO [64/192]
 
 私は憂に報いるんじゃないの?

 憂のために生きているんじゃなかったの?

 家事をすべて憂に押し付けたら、憂の負担が増えるじゃないか。

 それなら憂と一緒に暮らしているほうが家事を分担できる。そのほうが楽にきまっている。

 それが分かっているのに、何故私は憂を置いていくことにしたのか?

 きっとそれが憂の幸せにつながるからであって……。

唯「……なるほど」

 思考を進めていくと、すぐに掴めた。

唯「わかった。憂が私のこと嫌いだからだよ」

唯「だから私は憂から離れなきゃいけなかったんだ」

唯「私はそのことを深層心理で知っていた。そうだったんだよ」

 誰も、私の出した答えを正解だとは言わなかった。

 りっちゃんのくせに。


339 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:21:35.77 ID:zfJwbUoUO [65/192]
 
 それからしばらくして、私たちは斎藤さんからデビュー曲になる「No,Thank you!」の楽譜をもらった。

 澪ちゃんに似合う、クールでかっこいい卒業ソングだ。実際、ジャケット写真は澪ちゃんと私を前面に映す予定だという。

 カップリング曲の「ぴゅあぴゅあはーと」は対して少女の恋心をつづった甘いラブソングだ。

 まあ、「ギー太に首ったけ」を作詞作曲してしまった私には、何も言えない。

律「ギャップがあっていいと思うけどなー、私」

澪「すごくいいよ……この歌詞」

 りっちゃんと澪ちゃんはぴゅあぴゅあはーとを気に入ったらしく、暇さえあれば口ずさんでいる。

紬「私はこっちの曲のほうがいいかしら」

律「ムギはほんとイメチェンした唯大好きだな……」

紬「ええ! 唯ちゃん大好き!」ンー

唯「ありがと、私も好きだよ。でもキスするのはやめてほしいな」

紬「あーらら、私ったら……」ブシュッ


340 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:25:19.55 ID:zfJwbUoUO [66/192]
 
 ある程度の紆余曲折はあったけれど、無事予定までに曲を演奏できるようになり。

 レコーディング、ジャケット撮影。プロモーションビデオも撮る。

 発売日が近づくと各地のイベントに顔を出して回る。

 なるほど、斎藤さんの言ったように恐ろしいほど忙しかった。

 高校もろくに行けなかったが、私立だけあって、こうやって名を広めたりすると授業なんて受けなくても特例扱いで進級できたりする。

 桜高軽音部の名前をもういちど知らしめられるとあって、学校の方も力を入れているらしい。

 私たちのバンド名も、桜ケ丘高校軽音楽部、ということになっている。

 学校にどんな影響が出るのか分からないが、私たちは必死に走り回り、ついにCD発売の日を迎えた。

 と、同時。憂が桜ケ丘高校に合格した。


341 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:30:13.48 ID:zfJwbUoUO [67/192]
 
唯「……どうして、桜高に?」

憂『ちょうどレベルが合っただけ』

憂『別に、馬鹿な高校に行ったわけじゃないんだからいいじゃん』

 そうだ。

 私は憂の進む道に口を出す権利を持たない。

唯「まあ……いいんだけどさ」

憂『そうでしょ。じゃあ、切るよ』

 まだ言いたいことがあったのに、憂はさっさと電話を切ってしまった。

唯「……憂、ちゃんとご飯食べてるんだろうか」


342 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:35:46.24 ID:zfJwbUoUO [68/192]
 
澪「……」ソワソワ

律「……」ウロウロ

紬「ねえ唯ちゃん」

唯「なに、紬?」

紬「唯ちゃんは私たちのCD、何位だと思う?」

唯「そうだね……みんなはどう思うの?」

紬「私は……やっぱり1位がいいかしら」

唯「律は?」

律「1位に決まってるって!」

唯「澪はどう?」

澪「私は……な、7位くらいじゃないのか?」


343 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:40:47.56 ID:zfJwbUoUO [69/192]
 
律「そんなこと言って、心の中では1位を期待してるよな?」

澪「なっ……うるさいな、もう……」グイ

律「うべ」

澪「それで、唯はどうなんだ?」

唯「……斎藤さんが他の大物アーティストとかぶらないよう、うまく調整してくれた」

唯「他の有象無象に、私たちの音楽が負けるとは思えない。営業も販促もいっぱい頑張った……」

唯「……1位以外、取ると思う?」

紬「ふふっ、ありえないわね」

律「そうだ! なんたって私たちは現役女子高生バンドなんだからな!」

澪「そんな色物でいいのかお前は……」


344 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 06:45:16.06 ID:zfJwbUoUO [70/192]
 
 順位?

 いやまあ、それはいいじゃん。

 とにかく私たち桜高軽音部は鮮烈なデビューを飾って、世間に広く認知された。

 セカンドシングルも売れに売れて、今度は1位を獲得した。

 それからの新曲もベスト10上位を取り続け、世間では「桜高軽音部」が流行しだしていた。

 デビューから1年近く経った今、それはまさにピークに達しているといえるだろう。

 二ヶ月後。私たちの武道館ライブが控えている。

唯「ぷはぁっ!」ザバァ

唯「はーっ、はーっ……」ポタポタ

唯「……ふぃー」

 私は防水のデジタル時計に目をやる。

 11時32分。だいたい3分経っていた。

 まだまだかな、と耳の中に入った水を振り落とす。


346 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:00:32.54 ID:zfJwbUoUO [71/192]
 
 私は湯船から上がると、ぬるめのシャワーを高いホルダーに掛け、背中から浴びた。

唯「ふー……」

 目を閉じたまま、私は明日の予定はどうだったっけ、と考え始めた。

唯「……あれ? まさかオフ?」

 これといった仕事が入っていた記憶はない。2連続オフとは。

 いや、そもそもだからこそ家に帰ってきたのではなかったか?

唯「あーもー、疲れてるな」

 私はうなじのあたりを掻いてからシャワーを止めると、水をボタボタ垂らしながら浴室を出た。

唯「さっさと寝よ……」

 バスタオルでごしごし体を拭き、髪を乾かすと、私は下着だけ履いて自分の部屋に向かった。


347 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:05:18.42 ID:zfJwbUoUO [72/192]
 
 ガチャ

唯「ん」

憂「あっ」

 バタン

唯「まだ起きてたんだ、憂」

憂『起きてたら何? そっちと違って寝てる余裕なんかないから』

唯「そ。おやすみなさい」ガチャ

 バタン

憂『……』ガチャ バタン

 スタスタ

憂『ちゃんと服着てよ』

 トン トン トン……


348 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:10:27.91 ID:zfJwbUoUO [73/192]
 
 翌日。

 たっぷり眠ったと思って、寝ぼけ眼をこすってみれば、朝の7時。

 拍子抜けして、なんだか目が覚めてしまった。

唯「……そうだ、学校行ってみよ」

 私は独りごちると、洗面所に降りて顔を洗い、髪を整えた。

 ある層のファンの間では、イメチェン前の私、通称「白唯」のほうがかわいいという勢力と、

 イメチェン後の私「黒唯」のほうがかわいいという勢力が争っているらしい。

 私は黒唯派だ。今日はヘアピンをつけず、髪はアイロンで真っ直ぐにする。

 部屋に戻ると、私はしばらくぶりの制服に袖を通した。

 いや、仕事で制服はよく着るんだけれど、私の制服を着るのは久しぶりだ。

 長いこと着ていなかったからか、ずいぶんくたくたになっている。


349 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:15:38.69 ID:zfJwbUoUO [74/192]
 
唯「よいしょっと」ピシッ

 ブレザーの襟を引っ張ると、くたびれた制服でも少しはしゃんとして見えた。

 軽いカバンを持ち、ギターケースを背負って家を出る。

唯「あっ、朝ごはん……」

 習慣がないのですっかり忘れていた。

 昔は欠かさなかったが、忙しい日々が続く今は摂る日のほうが少ない。

 とはいえ、可能な限りは欠かさないようにしているのも事実。

唯「途中でコンビニ寄ろうっと」

 普通の高校生みたいで、なんだかウキウキする。

 私は遅刻でもないのに駆け出して、懐かしい通学路をきょろきょろ見回した。



350 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:20:27.54 ID:zfJwbUoUO [75/192]
 
 コンビニでジャムパンといちごオレを購入。

 ストローを差してちゅーちゅー飲みながら歩いていると、見慣れた後姿に出会った。

唯「律、澪」ツンツン

澪「わふっ」ビクッ

律「たあっ!?」ピョン

律「ゆ! ゆゆゅゅぃ……なんだ唯か……気付かれたかと思ったぞ」

唯「誰もこんなヘナヘナの制服で律や澪が歩いてるなんて思わないよ」

澪「確かに。でも唯もひどいな、制服」

唯「アイロンかける時間はあったけどね……二人も学校?」

律「ああ、今日は久しぶりにオフなんだ。もしかして唯も?」

唯「そうだね。多分オフだったかも。マネージャーから電話が入らないことを祈るよ」

澪「もうちょっとしっかりしようか、唯……」


351 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:25:33.50 ID:zfJwbUoUO [76/192]
 
唯「……あれ?」

 ジャムパンをかじりながら歩いていると、目の前にまさかの人影現る。

紬「唯ちゃんじゃない! それにりっちゃん澪ちゃんも!」

 ムギちゃんだった。軽音部がこんな道端で集合してしまった。

澪「ちょっ、ムギ声大きい……」

紬「あっ……ごめんなさい」ヒソッ

唯「大丈夫だよ紬。ばれてない」キョロキョロ

紬「そう、よかった」ダクダク

律「淡々と鼻血を出すなムギ……目立つだろ」シュボ ギュギュ

唯「律はどうして箱ティッシュを常備してるの?」

澪「まあどっちにしろ、学校に着いたらさすがに隠し通せないぞ」

律「またもみくちゃか……澪、パンツ取られないように気をつけろよ」

澪「取られないから」


352 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:30:10.74 ID:zfJwbUoUO [77/192]
 
 学校に着くと、案の定大騒ぎになった。

 「軽音部だ!!」

 全員が一斉に、叫んだ少女のほうへ振り向き、次に彼女が指差している場所……私たちの立っている場所を見据えた。

 一瞬の間を置いて、砂煙を上げながら少女たちが駆け寄ってきた。

 どうかしてる。

律「散開だあっ!」

 りっちゃんの号令に従って駆け出そうとした。

 その矢先。

梓「はいはい、ちょっと待つです!」ズザー

純「軽音部ならここにもいるよっ!」シュタッ

 なんか滑りこんできた。なんか降ってきた。

 この学校にはもっと力を入れるべきことがある気がする。


353 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:35:12.59 ID:zfJwbUoUO [78/192]
 
澪「おおっ! 梓ちゃんに純ちゃん!」

紬「澪ちゃん、お知り合い?」

澪「ああ。前に学校来た時も、似た状況になったんだ」

澪「その時にもこうして助けてもらった」

梓「先輩、話は後です!」

純「ここは私たちが止めますから、先輩たちはなんとか音楽室に!」

 私たちは頷き合った。

律「澪、行くぞ!」

唯「ついてきてね、紬」スッ

紬「ええ!」パシッ

 私はムギちゃんに手を貸して、地を踏みしめると駆け出した。

 上履きに履き替えなくてもいいよね、別に。


354 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:40:13.15 ID:zfJwbUoUO [79/192]
 
 音楽室は最上階にある。

 もとより別名「上るのめんどくさいあそこ」と呼ばれる辺境の地として疎まれていた場所だ。

 久々に訪れた私たちとしても、その所以をたっぷり再確認させられているところで。

 要するに。

唯「遠い……」ハァ

律「くっそ……こんなに遠かったか!?」ギュギュ

紬「ふむぐ……わ、わかりばせんわ」タラー

澪「でも次の階段を上れば」

律「あっ、バカ澪! それはフラグだっての!」

澪「えっ?」

 「キャー! 軽音部だー!」ドドドッ

唯「……律が悪い」

律「そんなっ!?」ガビーン


355 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 07:45:07.40 ID:zfJwbUoUO [80/192]
 
 さて、何はともあれ。

澪「囲まれたな」

 いつの間にか背後からも生徒たちが集まって来ていた。

 お前らホームルームの時間だぞ。私もだけど。

唯「階段なんて足場の悪いところでもみくちゃにされたら、ケガしちゃうかも」

律「もうちょい焦ろうか、唯」

紬「あらあら、頼りになっていいじゃない」

律「頼りにはなるけど安心すらできないのが唯の惜しいところだよ……」

 私たちが身動きをとれないことを分かっているのか、暴徒と化したファン達はゆっくりとにじり寄ってきた。

澪「ケガしたとして、武道館ライブまでに治るか……?」

唯「程度にもよるけど……みんな、両手はしっかり守ってね。それでなるべく律を守るよ」

紬「そのセリフ、私に言って欲しかった……」

律「ま、みんなひどいことはしないだろ。いっそファンサービスに徹するか?」


356 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:00:12.81 ID:zfJwbUoUO [81/192]
 
澪「せっかくのオフだけど、しょうがないか」

 澪ちゃんがため息をついた瞬間。

 「伏せてっ!」

 稲妻が迸るかのように、居合わせた全員を射抜く鋭い声がした。

 私たちは即座にかがみ、頭をかばう。

 だが、うじゃうじゃと狭い廊下や階段に集まっている生徒たちはそうもいかないようだ。

 続けて、ひしめき合い混乱する彼女たちの耳に、乾いた銃声が3つ、届いた。

 私には録音したものだと分かったが、澪ちゃんは単純に音の大きさに驚いたのだろう。

 りっちゃんに飛びつくと、気絶してしまった。

 ……いいんだろうか、これ。

 まあ、ややこしい是非はともかく、パニックになった生徒たちは散り散りになってどこへともなく消えていった。

唯「……和?」

 私が問いかけると、先ほどの声の主は悠然と階段を下りてきた。



357 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:06:01.97 ID:zfJwbUoUO [82/192]
 
和「久しぶりね、唯。大事なかった?」

憂「……」フイッ

 その右腕で、予期せぬ人物をがっちりと抱えて。

唯「あ……いや、澪が気絶したみたい。このまま音楽室に連れていって、休ませてあげよ」

和「そうね。手を貸すわ」

 和ちゃんは憂を解放して、澪ちゃんのところまで降りてくる。

 憂はというと、自由になるやいなや駆け出していた。

唯「憂! ありがとう!」

 走り去る背中に、私の声が届いたかどうかは分からなかった。

律「……よいしょっと」

和「助かるわ、田井中さん」

 りっちゃんと和ちゃんで、澪ちゃんに肩を貸して音楽室まで連れていくことにした。

 ムギちゃんは私を見て、珍しく難しそうな顔をしていた。


358 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:10:49.47 ID:zfJwbUoUO [83/192]
 
 音楽準備室

唯「なんか、懐かしいね……」

律「そうだなー。ちょっと前までは、ここで部活をやってたんだよな……よっと」

 りっちゃんは澪ちゃんを固いソファーに横たえると、ぐるぐる肩を回した。

 少し遅れて、梓ちゃんと純ちゃんも音楽室にやってきた。

和「紹介するわね。中野梓と鈴木純。軽音部の1年生よ」

純「お、お初にお目にかかります……」ハァハァ

梓「中野梓です、よろしくおねがいします」ハァハァ

紬「梓ちゃんに純ちゃん。お疲れ様」ニコッ

和「生徒会と軽音部は、唯たちがいつでも気軽に学校に来れるよう、常に警戒をしているの」

和「私たちがいる限りは、学校で危険な目には遭わせないわよ」

唯「それは頼もしいね」


359 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:15:33.74 ID:zfJwbUoUO [84/192]
 
唯「でも、軽音楽部って二人だけなの?」

紬「そうね。二人で練習できるの?」

梓「いえ、部員はあと一人いるんです。私と、ここにはいませんが憂がギターを、純がベースをやっています」

梓「私はギター一筋だったんですけど……憂がどうしてもギターをやりたいというので、こういう形になりました」

 りっちゃんがニヤニヤしてるのを感じた。

唯「憂……って、平沢憂?」

純「はい、ゆ、ゆゆ唯先輩の、妹です」

唯「そう。憂がね……」

紬「ねえ梓ちゃん、憂ちゃんはどうしてギターを?」

梓「それは言えないって言ってましたけど……」

純「きっとお姉さんに憧れてるんですよ!」

 憂が私に憧れている。

 そんなはずはないと思った。


360 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:20:14.76 ID:zfJwbUoUO [85/192]
 
唯「……」

唯「ねえ二人とも。憂の夢って知ってる?」

梓「え? ……聞いたことないです」

純「私も……なんとなく唯先輩の後を追っかけたいんだなーと思ってたんですけど」

純「……違うんですか?」

唯「……本人が言うには、違うらしいけどね」フー

 どうなっているんだ。

律「かわいいなぁ、憂ちゃん」プークスクス

紬「ふふ……唯ちゃんの方がかわいいわよ?」

 高卒認定試験に合格し、同年度にどこかの大学に入学し、家を出る。

 憂が私に語った夢といえば、これのことなんだけれど。


362 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:25:43.52 ID:zfJwbUoUO [86/192]
 
唯「みんなはどのくらい練習しているの?」

梓「純はアルバイトをやっているのでたまに休みますが、私と憂は毎日練習してます!」フンス

 大学と言っても千差万別。しかし、高卒認定試験はそう簡単に合格できるものでもないだろう。

 毎日放課後に残ってギターを練習して。

 ずば抜けた学才もないのに、それで弱冠15歳が合格できるのか?

 なおかつ、その目標を私以外の誰にも宣言していない。

 たった二人の部活仲間にすら。もしかしたら、来年には共に部活をできない間柄になるかもしれないのに。

 あと、16歳で大学合格なんて、ちょっとカッコいいのに。

 ――ねえ。

唯「やる気はあるんだね」

 やる気なんかないんじゃないの、憂。


363 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:30:19.95 ID:zfJwbUoUO [87/192]
 
 私はカバンを開くと、中から三枚の紙片を取りだす。

唯「はい。みんなで仲良く分けあってね」

 それを受け取った二人の目が、らんらんと輝いた。

梓「これ……二ヶ月後の武道館ライブのチケットじゃないですか!」

純「しかもっ、さ、最前列!? い、いただいていいんですか!?」

唯「よかったら、聞きに来て」

梓純「絶対行きますっ!!」フンヌ

 その後。

 私は他愛のない話題を選んで梓ちゃんたちと話をしたり、一緒に演奏をしたりした。

 授業を受けることはできなかったし、ギターなんていつも弾いているけれど、なんだか有意義な時間だった。

 しかし頭の片隅で、憂のことがぐるぐると回る。

 あの子はいったい何を考えていらっしゃるの。


364 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:35:04.97 ID:zfJwbUoUO [88/192]
 
 平沢家

唯「ただいま」ガチャ

 シーン……

唯「……って、いない」バタン

 私は明日の仕事に備え、遅くならないうちに帰ってきた。

 とはいえ、授業はとうに終わっている時間。

 どうやら、憂が毎日練習に行っているというのは本当らしい。

 昨日も帰りは遅かったはずだ。

唯「……」

 憂が何時頃帰ってくるか想像をつけてみる。

 あと1時間くらいだろうか。昨日はそのくらいだったはずだ。

唯「やるか……」

 私は部屋にギターを置き、無地のシャツに着替える。


365 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:40:38.10 ID:zfJwbUoUO [89/192]
 
 久々に入る、憂の部屋。

 かれこれ5年ほど立ち入っていないだろうか。

唯「……」ガチャ

 ノックをせず、ドアを開けた。

 まず目に付いたのは、ギタースタンド。次に、本棚に敷き詰められた参考書と問題集。

 枕を軽く叩いてみると、石鹸の香りが溢れ出た。

 昨日は部屋に逃げ込んでしまったが、私が寝た後きちんとお風呂に入ったらしい。

唯「……」

 机の上には、消しカスの散らばったノートと、数学の問題集。

 問題集を拾い上げてみると、表紙には数学ⅡBとあった。

 しおりに挟まれていたページを開くと、ちょうど解きかけになっている問題が目に付いた。

 私でも解ける程度の、基本的な問題だった。


366 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 08:46:30.41 ID:zfJwbUoUO [90/192]
 
 さて、ノートに書かれた計算式は途中で消されている。つまりはミスをした、ということになるのだけれど。

 私は目を凝らして、どんな間違いをしたのか確かめることにした。

唯「……」クス

 これは。

唯「……あはっ」

 思わず笑ってしまう。

 憂のした間違いが特別に可笑しいわけではない。

 心があたたまって、ほんわかして笑ってしまう。

 だって、本気で勉強をしているとしたら、こんなミスはいくらなんでも起こり得ない。

 憂が勉強に没頭なんてしていなくて、私の手の届かないところに行くことはないんだとわかって。

 私は胸の奥があたたかく、落ち着いていくのを感じた。


368 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:00:21.35 ID:zfJwbUoUO [91/192]
 
 私は傍らにあった憂のペンを取った。

 数学の問題を解くのは久しぶりだ。

 憂の進んでいった方向とまるで違う道筋で、点Aの座標を求めていく。

 数学は発想力とは言うけれども、それは応用的な問題の話だよ、憂くん。

 これはただひたすらに解法のテンプレートをあてはめ続ける問題なのだから。

唯「……うん、余裕」

 答えを確認し、席を立つ。

 今夜中には東京に戻らないといけない。

 私は自分の部屋に戻ると、ハンチング帽を被り、伊達眼鏡をかけて、一枚、これも目立たないシャツを羽織り、ギターを背負う。

 外に出ると、この時間帯は少しばかり冷え込むようだった。肌寒い風が懐を抜ける。

 私は長袖のシャツに替えようかと思ったが、戻っている時間が惜しく感じた。

 そして、その判断は正しかった。私が門を抜けていってからしばらくして、憂の部屋から明かりが漏れるようになった。

唯「じゃ、またね」


369 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:05:39.38 ID:zfJwbUoUO [92/192]
 
 「うふ」

 電車で向かい合う形となった少女が、目が合うたびに笑いかけてくる。

紬「ふふ」

 まあ、ムギちゃんなんだけど。

 私は携帯をいじるのにも飽きて、耐えきれずに席を立った。

 そしてムギちゃんの座っている前に立ちはだかると、吊り革を持ってへたれる。

唯「紬も明日は仕事?」

紬「ううん。けど、唯ちゃんの顔が見たかったの」

唯「そうなんだ。紬は全部気付いてるんだね」

唯「……いや、気付いてなかったのは私だけなのかな」

紬「うふふ。そういう意味で言ったんじゃないのに。唯ちゃんたら」

唯「分かってたよ。真意をくみとりたくなかっただけ」

紬「あらあら」


370 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:10:21.22 ID:zfJwbUoUO [93/192]
 
唯「隠すようなことじゃないしさ。私の家族のことだし」

唯「で? 私の顔、昨日よりよくなった?」

紬「ええ、とっても。見惚れちゃうわ」

紬「吹っ切れたのか、解決したのかはわからないけど……いい顔」

唯「そ。ありがと」ニコ

紬「ふふっ」ブバッ

 急いで家を出てきたのは、電車の時間だったからでも、憂を避けていたからでもない。

 今回のことは憂自身に考えてほしかった。

 私に会ったら、憂はきっと武道館のチケットを突っ返してしまう。

 そしてチケットは憂の手元からなくなり、憂は何も考えず、また「高認を目指して勉強する平沢憂」に戻る。

 それではだめだ。


372 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:15:08.93 ID:zfJwbUoUO [94/192]
 
 私のチケットと向き合って、そして私と向き合って。

 自分の本当の気持ちに気付いてほしい。

 私でも解ける問題を解けないくらい、勉強をしてこなかったことを知って。

 自分が本当にしたいことに気付いてほしい。

 そして、できればそれを、恥ずかしがらずにお姉ちゃんに教えてほしい。

唯「紬、いまティッシュ出すから待ってて」ゴソゴソ

紬「ごべんね唯ちゃん」ボタボタ

唯「よいしょ……はい」ギュギュ

紬「んふふ」ポワー

 ムギちゃんを見ていると思う。

 私もりっちゃんみたく、ボックスティッシュを持ち歩くことにしよう、って。


373 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:20:28.35 ID:zfJwbUoUO [95/192]
 
――――

憂「……」

 私は居間で転がりながら、梓ちゃんにもらったチケットを蛍光灯にかざして眺めていた。

憂「武道館ライブ、か」ボソ

 まったくもって興味がわかない。

 したがって行きたくない。

 ……だというのに。

純『憂、あんたのお姉さん最高!!』キラッキラッ

梓『テンション上がってきたよ! 二ヶ月後が今から待ち遠しいねっ!!』ビカッビカッ

憂「……はぁ」

 私は一人の人間だけど、一人じゃない。

 付き合いという物がある。


374 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:25:21.18 ID:zfJwbUoUO [96/192]
 
純『いくよねっ、いけるよねっ、憂!』ギンギラギンッ

 あの瞳の輝きを見せられて、行けないなんて言えるものか。

 二ヶ月後ともなると、私もスケジュールを把握していない。

 まあ私に用事と言えば軽音部くらいだから、どうせ空いてるんだろうけど。

 今さら悩んだところでしょうがない。

 もう行くと言ってしまったんだ。じゃあ行こうじゃん。行ってやろうじゃん。

憂「……」ムクッ

憂「……二ヶ月後……?」

唯『あと2ヶ月なのに手つかずの教科があるんだ』フフ

憂「……」ブルッ

 手元のチケットに書かれた日付を確認する。

 緩慢な動作で立ちあがり、階段をふらついた足取りで上る。


376 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:30:46.34 ID:zfJwbUoUO [97/192]
 
 ガチャ

 部屋に入るやいなや、年間カレンダーと睨みあう。

 そして11月につけられた日付と、先程確認したライブの日付を照合。

憂「……っ」ゾワゾワッ

 ああ。

 おわった。

 もうすこしよろしく、平沢邸。

憂「……」ドサッ

憂「……」

 ……いや、その。

 高校のころに出来る友達って、大事だって言うし。

 だから、この刹那の二者択一。間違ってないよね?


377 名前:>>375 ぜんぶ書き溜めだぜ[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:35:38.12 ID:zfJwbUoUO [98/192]
 
憂「……」グデー

憂「……ああ、お風呂入らないと」ムクッ

 昨日もそうだった。

 お風呂は翌朝でいいと思って布団に潜ったものの、少し眠ると体が気持ち悪くて目が覚めてしまった。

 入浴は重要である。危険を伴っても欠かすわけにはいかない。

憂「ふんふーん♪」トン トン……

 ほぼ生まれたままの姿の、確執ある姉に遭遇するとか、

憂「ふーふふーん♪」スルル パサッ

 濡れたタイルでお姉ちゃんが滑って転ぶとか、

憂「ふーふふんふーふーん♪」カララ

 その結果として母を殺し、父にその罪をなすりつけることになるとか。

 そういう危険を伴っても、入浴は欠かすわけにはいかない。


379 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:40:20.84 ID:zfJwbUoUO [99/192]
 
 私の罪は、誰も知らない。

 姉にこの罪を告白した時、姉はしばらく押し黙った後、

唯「うい、ドリルかってにつかったこと、ほかの人のだーれにも言っちゃだめだよ?」

憂「? うん……」

唯「おねえちゃんと、やくそく」

 私とそんな約束を交わした。

 それから数日して。お父さんは朝早くに、口をぎゅっと結びながら家を出て行った。

憂「おるすばん?」

 私は姉にそう尋ねた。

唯「うん。長い長いおるすばんだよ」

 それはどれくらい長いのか。

 本当におるすばんなのか。

 訊きたいことが子供心に溢れたけれど、それを言葉にすることはなかった。


380 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 09:45:44.51 ID:zfJwbUoUO [100/192]
 
憂「……」サアアア……

 それからもずっと、私は姉との約束を守っていた。

 時が経つにつれて、自分のやったことの重みが私を苦しめるようになり。

 ときどき私は、本当のことを言いたいと姉に相談した。

唯「だめ」

 しかし姉はその一点張りだった。

唯「……憂は優しいね。でも、それは憂が苦しむことじゃないの」

唯「お姉ちゃんがそうさせちゃったの。だから憂は悪くない」ギュ

 私を抱きしめて、そんな風にささやく。

 そうすると、だんだん私はまどろみはじめて、苦しんでいたことをちょっとだけ忘れる。

 しばらくすると、また辛くなる。

 そしてまた、本当のことを言いたいと相談する。

 そしてまた、姉が私を抱きしめる。私から辛苦がぬけていく。


381 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:00:27.46 ID:zfJwbUoUO [101/192]
 
 ある夏の夜のことだった。

 姉は珍しく、テレビ番組を熱中して見ていた。

 私も姉の横に座り、一緒に眺めてみる。

 有名なギタリストの半生を描いたドキュメンタリーらしい。

 インタビューのシーンで、姉は大きく息を呑んだ。

 彼がどんな言葉を言ったのか覚えていないが、姉の様子がおかしくなったのはそれからだった。

憂「お姉ちゃん、これ食べたい!」

唯「だーめ。もっとちっちゃいのにして」

憂「……じゃあじゃあ、これやろうよ!」

唯「憂のお小遣いいっぱい減っちゃうよ? いい?」

憂「……出し合ってくれないの?」

 一緒にチョコレートをぱくついたりとか。

 ボードゲームで競い合ったりとか。

 そういうことを拒否するようになった。


382 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:05:20.49 ID:zfJwbUoUO [102/192]
 
 秋の終わりになって、私は真相を知った。

唯「じゃーん!」

憂「お姉ちゃん、これって……?」

唯「コンニチワ ギータダヨ ウイチャンヨロシクネ!」クイクイ

憂「……でも、高かったんじゃない?」

唯「だいじょぶだいじょぶ、頑張って節約したお金で買ったんだ!」

憂「……そっかぁ!」ホッ

 姉はただ、ギターを買うために節制していただけだったのだ。

 よくよく思えば、食材の買い物は私の好きなものにしてくれたし、料理も二人で一緒に作っていた。

 姉が私を嫌っている、というところまで考えが行っていた私は、そう言われてずいぶん安心していた。

唯「ぎゅいーん!」

憂「かっこいいよ、お姉ちゃん!」

 安心できたのは、その一日きりだったけれど。


383 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:10:28.97 ID:zfJwbUoUO [103/192]
 
 姉の倹約はそれからも続いた。

 おまけに、ギターにかかりっきりで、家事も自分の分担だけこなすと部屋に戻ってギターを鳴らす。

 それは別に間違っていることじゃない。そうできるように、当番制にしていたのだから。

 けれど、今まではどっちが当番とか関係なしに、一緒に家事をやったじゃないか。

 料理は料理の中で分担。姉が野菜を切り、私が肉を炒めた。

 掃除は掃除の中で分担。姉が窓を拭き、私が掃除機をかけた。

 洗濯は洗濯の中で分担。姉が洗濯物を持ってきて、私がハンガーにかけた。

 そういう風にやっていたのに、どうして。

 頼めば姉は働いてくれた。当番もきっちり守った。だけど自分から動くことは決してなかった。

 それからはもう、「一緒にやろう?」という言葉は聞いていない。

 私はギターのシャンシャンという音がするたびに、胸が締め付けられる思いだった。

 それでも、姉はギターが好きなのだから、じっと耐えていた。

 私は姉にどうこう言っていい立場ではないのだ。


384 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:15:06.27 ID:zfJwbUoUO [104/192]
 
 私は昔からよく、「両親がいなくて寂しくないの?」と訊かれていた。

 そのたびに私は、「お姉ちゃんがいるから寂しくない」と答えていた。

 けれども、姉がアンプを買い、家じゅうにギターの音を響かせたその日。

憂「……うう」グス

 私はけたたましい爆音の中、胸を震わす寂しさに泣いた。

 泣きながら、タマネギを刻んでいた。

憂「おね、ちゃ……うわあああああああぁぁぁん……」

 ベタなオチだったら良かったけれど、慟哭まであげてしまって。

 それでも姉は、台所に来てはくれなかった。

 それきり、「お姉ちゃん」という言葉は発していない。

 「一緒にやろう?」に対するちょっとした仕返しである。


385 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:20:51.25 ID:zfJwbUoUO [105/192]
 
 さてさて、私も中学生になると、自分がちょっと大きくなったような気がしていた。

純「おはよー、憂」

憂「あ、おはよう純ちゃん」

 ある冬の日、私は学校に行く途中の道で、友達の純ちゃんからわくわくするような話を聞いた。

純「ねえ憂、今日から土日、うちに泊らない?」

 楽しげに吐いた息が白く踊る。

純「月曜まで両親いなくて暇なんだ! うちで遊びつくそうよ!」

憂「ほんとに!?」

純「ほんとだよ!」

 私は心底うれしくて、すぐに承諾していた。

 今日は料理の当番だったけれど、作り置きしておけば問題ないだろう。

 姉が食べたいのは一緒に作る料理ではなく、ただの食事なのだから。

憂「行く行く! 私、そういうの夢だったんだ!」



386 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:25:27.76 ID:zfJwbUoUO [106/192]
 
 放課後、私は家に帰ると、簡単な料理を作ってラップをかけた。

 そして、「夕ご飯はこれを温めて」と書き置きすると、スポーツバックに衣服と生活用品を詰めて家を出た。

憂「純ちゃん!」ハッハッ

純「お、いらしたね憂!」

 私は純ちゃんとゲームに没頭したり、一緒に料理をしたり、

 ベッドでふざけあったりしながら、楽しい時間を過ごした。

 次の日の朝は私が先に起きて、まず携帯を開いた。

 着信5件、メール3件。

 なんだか現実に引き戻された気がした。私は携帯を閉じ、バッグの底にしまう。

純「んー? なにしてんの憂?」ムクッ

憂「えっと……ハブラシ出してた。ほら」

純「それは、カミソリですよっ!」クワッ

憂「チェンバル語講座はやらなくていいの」


388 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:30:15.20 ID:zfJwbUoUO [107/192]
 
 その日はごろごろしながら漫画を読んだり、純ちゃんお気に入りのバンドのライブビデオを見て、

 真似してエアギターに興じたりしていると、勝手に一日が終わっていた。

 私たちは疲れ果てて、お風呂に入って汗を落とすと、近くのコンビニで晩御飯を買った。

 純ちゃんは汗をかいたからと、1Lのスポーツドリンクを飲んでいた。

 そして帰ってコンビニ弁当を食べ、すぐに就寝。前日のようにふざけあうこともなく、互いにぐっすり眠った……と思った。

 夜中。やはり1Lは飲みすぎだったのだろう。

 トイレに起き出した純ちゃんが、私のバッグが光を発しているのに気付いたらしい。

 音はサイレントにしているから気付かれなかったけれど、着信時のランプがバッグを抜けて外まで漏れていたのだ。

 ひとまずトイレに行った後、純ちゃんはランプが気になるから、という理由で私の携帯を引っ張り出した。

 着信やメールを全て確認すれば、ランプは消える。内容を読むつもりではなかったらしい。

 そんな軽い気持ちで私の携帯を開いた純ちゃんは、さぞかしびっくりしたことだろう。

 着信38件、メール7件。発信元は全て「姉」。

 自分で開いたとしてもぞっとする。


389 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:36:00.60 ID:zfJwbUoUO [108/192]


 
 そして、タイミングよく39件目の着信。

 純ちゃんは心配になったらしくて、そっと通話ボタンを押して、こそこそと廊下に出た。

 話によると。

 姉は息切れしていて、最初30秒は口をきかなかった。

 それでも、枯れた声で「憂?」と尋ねた。

 純ちゃんは、自分が妹の友人である鈴木だと明かし、

 慎重に言葉を選びつつ、私が純ちゃんの家に泊っていることを説明した。

 姉はすぐに迎えに行くといって、純ちゃんの家の場所を訊いた。

 住所を言うと、「三丁目の鈴木ね、わかった」とだけ言って電話を切ったという。

 純ちゃんに叩き起こされた私は、そりゃあもうガンガンに叱られた。

 純ちゃんに常識を説かれたのは後にも先にもこれ一回だけだけれど、その剣幕と言ったら、今でも覚えている。

 「暇なんだ」と純ちゃんは言っていたけれど、本当は家族がいなくてさびしかったんだと思う。

 それなのに、たった一人しかいない家族を軽んじた私が許せなかったんだろう。

 とにかく私はペコペコと謝った。もうしない、と。

390 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:40:26.10 ID:zfJwbUoUO [109/192]
 
 迎えに来たお姉ちゃんはひどく憔悴していた。

 声は枯れ、髪はボサボサ。なんとなく頬も痩せていた。

 純ちゃんに促され、それ以上居つくわけにもいかず、私は姉と帰ることになった。

唯「ねえ、憂」

憂「……なに?」

唯「どうして、家出なんてしたの?」

 なるほど、家出か。これは家出だったんだ。

 私はこみあげてきた笑いを、ただの息にして吐きだした。

 家出とわかっていて、それなのに姉には理由がわかっていない。

 問答するのもくだらなくて、私は口をつぐんだ。

 黙り合ったまま家に着く。

 見慣れた家だ。だけれど、もう見ていたくない家。

 私はさっさと歩いて、玄関を開けた。


391 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 10:45:12.06 ID:zfJwbUoUO [110/192]
 
 冬の夜中。暖房もかからない玄関は、しかしなんだか暖かかった。

 後ろでお姉ちゃんは、身ぶるいしながらドアを閉める。

 私は砂をけるかのごとく靴を脱ぎ捨て、階段を上がった。

憂「……あのさ」

 その途中で私は思い直して、ちょっと階段を下ると、私の靴を直している姉に声をかけた。

憂「迎えに来てくれて、ありがと」

唯「……ううん。帰って来てくれてありがとう」

 姉がそう答えると、私の心にあたたかさがしみわたった。

 一緒にいてくれてありがとう、と姉は言ったのだ。

 もう少しお世話になります、平沢邸。

 シャンシャン

 と思ったのはつかの間で。

 姉の部屋からギターの音色が聞こえてきたときにはもう、私はなんとかして家を出る手段を練り始めていた。


392 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:00:31.39 ID:zfJwbUoUO [111/192]

――――
 
 風呂場のくもった鏡を見つめる。

 ぼやけた上に、髪をおろしている私の裸身は、姉と見分けがつかない。

 私はこの家が嫌いだ。

 そして私の姉も嫌いだ。

 なのにどうして、私は姉の後を追いかけているんだろう。

 桜ケ丘高校に入り。ギターを買い。軽音部に入り。姉の武道館ライブに赴くことも、今決めた。

 その前は、高認を受けて人より早く大学に。というより、東京に行く事を考えていた。 

 東京には、姉の住んでいるマンションがある。

 そこに居候させてもらえばいいやと、平然と考えていた。

 今一度問おう、ぼやけた私よ。まったくもってぼやけている私よ。

 なぜ私は、大嫌いな姉の後を追いかけているんだ?


393 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:05:52.54 ID:zfJwbUoUO [112/192]
 
 翌日、軽音部にて。

純「やっぱ憂はいい感じだねー」

憂「そ、そうかな?」

梓「唯先輩に練習つきあってもらったりしてるの?」

純「あー、いいなぁー平沢唯の妹なんて!」

 何がいいんだ。

憂「へへ……でも私、お姉ちゃんに教わったことはないよ?」

梓「えっ、そうなの? もったいない……」

純「うん。そういえば憂、せっかく昨日唯先輩が指導してくれたのに、頑なに授業受けてたしね」

純「なになに、不仲説?」

憂「うーん、まあそうなんじゃないかな?」

憂「とりあえず私はお姉ちゃんのこと嫌いだし、お姉ちゃんも私のこと嫌いだと思うよ?」

 私が微笑みながら言うと、枯れ葉を乗せた一陣の風が吹いた。


394 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:10:28.60 ID:zfJwbUoUO [113/192]
 
純「ねーよ」

純「ねーよ」

 二回も言われた。

梓「ないね。うん、ない」

 だからなぜ二回言う。

憂「いや、あるよ。あるって」

純「ないっす。ダブルないっす」

梓「憂が唯先輩のこと嫌いも、唯先輩が憂のこと嫌いも、ダブルないっす」

 それで二回言ったのか。息ぴったりだね。

憂「あるある」

梓「ないない」

憂「あるある」

純「ないない」

 10往復くらいやったところで、私が「あるありゅ」と言ってしまい、梓・純チームの先攻となった。


395 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:15:18.73 ID:zfJwbUoUO [114/192]
 
純「憂、中学の時に家に泊まったの、覚えてる?」

憂「うん、覚えてるよ」

純「憂さ、唯先輩に連絡しないで、家出みたいな感じになったでしょ」

純「あの時の唯先輩、本当に町内ぜんぶ駆けずりまわって憂のこと探したんだと思う」

純「だって、住所と苗字だけで家の場所がわかるんだよ?」

純「そうでもなきゃ、あんな芸当はできないと思うんだよね」

憂「……声も枯れてたしね」

純「そうそう。きっと憂の名前、ずっと呼んでたんだと思うよ」

憂「そうかもね。……でも、もう3年前のことだよ」

梓「じゃあ昨日の話、していい?」

憂「……昨日の?」


396 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:20:29.18 ID:zfJwbUoUO [115/192]
 
梓「昨日、先輩方が学校に来たのはさすがに覚えてるよね」

憂「バカにしてる?」

梓「よかった、覚えてたね。……で、憂がいないからさ、憂も軽音部に入ってるって言ったら」

梓「唯先輩、すごく憂のことに食いついてたよ。いろいろ話してくれたし」

梓「憂のこと、唯先輩はちゃんと見てるよ。だから嫌われてるわけない」

憂「そう……なのかな」

 さて、私のターンなわけだけど。

憂「わかんないや……」

 ターンエンド以外に手がない。

 自動的に梓・純チームの攻勢に戻る。


397 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:25:26.90 ID:zfJwbUoUO [116/192]
 
純「それに、憂が唯先輩のこと嫌いとか言っても全く説得力無い」

梓「うん。どっからどう見ても大好きだよね」

憂「そんなはずは……」

梓「たっかいのに唯先輩とおんなじギター買って」

憂「そ、それは、何にしたらいいかわからなかったから……」

純「子供のころ一緒にやったツインビーの話が大好きだよねー? 4回は聞いてるよ」

憂「そうそう、ボムばっかり投げて困っちゃうの……はっ!」

純「大好きなんでしょ」

憂「そ、そうなのかな?」

梓「うわー、すっごいニヤニヤしてる」

 誰か止めに来ようよ。私のライフポイントはもう0だよ?


398 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:30:59.09 ID:zfJwbUoUO [117/192]
 
憂「でも……なんか納得いかない」

純「ま、憂が唯先輩を避ける態度をとることもよくあるけどね」

梓「過去になんかあったんじゃない?」

憂「過去……か」

 私はよく思い返してみた。

 どうして私は姉を避けるようになったのだろうか。

憂「ギターを買った日……」

純「えっ?」

憂「あの人がギターを買ってきた日だよ」

梓「あの人って……唯先輩?」

 私は頷いた。


399 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:35:32.38 ID:zfJwbUoUO [118/192]
 
憂「あの人にとっての私の位置が、ギターと入れ替わった、あの日」

憂「それから私は、あの人を避けるようになった」

 数学の解法が見えた時のような快感が、私を包んでいた。

 口から言葉がするすると紡ぎ出される。

憂「それまで私たちはずっと、何をするにも二人で協力してきた」

憂「ゲームだって、家事だって、二人でこなしてきた」

憂「チョコを食べるのだって、アイスを食べるのだって、二人ではんぶんこしてきた」

憂「いつも一緒にいたんだ、私たち」

憂「だけどギー太がうちに来てからはそうじゃなくなった」

憂「家事もゲームもチョコもアイスも、ぜんぶ一人だった」

憂「一緒にやることなんて、一個もなくなってた」

憂「あの人はギー太に首ったけで、私のことなんてどうでもよくなってた」

憂「うい、より、ギー太ぁ」

憂「それで私、家出まがいのことなんてしたがったんだ。見てほしかったから。一緒がよかったから」


400 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:41:15.42 ID:zfJwbUoUO [119/192]
 
憂「でも帰るなりあの人はまたギターの練習を始めた」

憂「もう私のことは見てくれない。一緒になにかやったりしてくれない」

憂「だったらもう、私も姉離れしなきゃ」

憂「そんなふうに思った」

憂「……なのに、私ずっと、あの人のこと好きだったんだ」

憂「ぜんぜん思い出から離れられない。まだまだずっとあの人と一緒にいたい」

憂「一緒にやりたいことがある」

憂「どんどんあの人の背中は離れていくのに、まだまだ追いかけたくて」

憂「一緒にギターを持って歌えば、私のことを見てくれるんじゃないかって思った」

憂「素直にならなかったのは、そういう関係が当たり前すぎたから」

憂「望んで求めても、虚しいような気がして……」


401 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 11:45:42.79 ID:zfJwbUoUO [120/192]
 
梓「そういう姿勢が、唯先輩をも億劫にさせちゃったのかもしれないね」

憂「……私、謝らなきゃ」

 私は携帯を取り出し、電話帳から「姉」を選んで発信する。

 しかし、コール音が鳴る前に、純ちゃんがそれを取り上げて通話を切った。

純「おおっと、それよりいいこと考えたんだよね!」

梓「ちょっと純!?」ピッシィン

 梓ちゃんが憤慨した。ツインテールが重力に完全に逆らっている。

 いや、そんなことより。

憂「いいっていいって、梓ちゃん」

 今のは純の気づかいだ。さっきの私はまた興奮していた。

 姉がギターを買ってきて、これからは一緒にアイスを食べられると勘違いしてしまったあの日のように。

 もしこのタイミングで、姉が電話に出ていなかったら、私は意味なくショックを受けていたかもしれない。

 それこそ、立ち直れなかった可能性もある。

 私がギャップというか、落差に弱いことを純ちゃんはよく知っている。


402 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:00:33.17 ID:zfJwbUoUO [121/192]
 
 それを咄嗟の迅速な判断で回避してのけた。

 和さんもだけど、昔馴染みの友人は頼りになる。

憂「それで、いいことって?」

純「いいこともいいこと。心して聞きなさい!」フフン

梓「……」

 梓ちゃんが両耳に指を突っ込んだ。

 しかし純ちゃんが胸を張ったまま、私のほうをずっと見ているので、やがて黙って指を外した。

 ツッコミ待ちだったんだ。

純「いい、憂はこれから2ヶ月、お姉さんに電話するの禁止! 電話を取るのも禁止!」

憂「ええっ!?」

 まあ、もともと普段から電話なんてしないんだけど。

 それでも、このもやもやした気持ちを抱えていろというのはつらい。


403 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:05:14.52 ID:zfJwbUoUO [122/192]
 
 しかし、いざとなれば――

純「もちろん会いに行くのも禁止!」

憂「くっ!」

 最後の手段、潰える。 

純「会いに来られるのも禁止!」

 それはよく分かんない。

梓「それで、結局どうするの?」

純「二カ月したら……先輩たちの武道館ライブがあるでしょ」

梓「ま、まさか……そういうこと?」

純「そういうこと! 唯先輩、感動するよ!」

 どういうことだ。

 まあ多分、楽屋に押し掛けていえーい武道館ライブおめでとーって感じだろう。


404 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:10:32.82 ID:zfJwbUoUO [123/192]
 
 純ちゃん、軽音部の先輩方に会いたいだけでしょ。

純「うへへ……今からわっくわくしちゃうなぁ~」

 ほら、あの顔。絶対そうだ。

憂「どうせ楽屋に押し掛けていえーい武道館ライブおめでとーって感じじゃないの?」

純「え? ああ、へへー。まあそうなんだけどさぁ」

 めんどくさいけどしかし、ここは付き合いだ。

憂「まあそういうことなら……わかった、電話も会うのも我慢するよ!」

梓「憂、がんばって!」

純「純様が完璧にセッティングしてあげるからな! 期待しておれよ!」

憂「うん、ありがとう!」

 さて、どうなるやら。

 とりあえず楽しみにしているだけでもあれなので、私たちは学園祭に向けて練習を始めることにした。


405 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:15:20.19 ID:zfJwbUoUO [124/192]
 
 武道館ライブまで、残り一カ月半。

憂「……」サアアア……

憂「ふー……」

 シャワーを高いところにかけて、お湯を背中とか肩に当てて

憂「打たせ湯きもちいー」ホワァ

 とかやってるの、私だけじゃないよね?


406 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:20:38.02 ID:zfJwbUoUO [125/192]
 
 武道館ライブまで残り一カ月。

憂「じゃあ次の曲、『私の恋はホッチキス』!」

和「ワン、ツー!」カンカン

梓(ピンチヒッターなのに和先輩やたら完璧なんだよなぁ……)

梓(ドラムができるってだけでびっくりだったのに……)

純(おっ、憂……出だしのリフ難しいのに完璧になって……)

純「……って憂! 歌!」

憂「はっ!?」

憂(歌詞忘れた!!)

和「なん でな~んだろ~♪」

梓(うっそぉーん!?)ガビーン



407 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:25:13.58 ID:zfJwbUoUO [126/192]
 
 武道館ライブまで残り20日。

憂「純ちゃん、ライブの件大丈夫?」

純「もう一カ月半くらいおんなじこと訊いてるよね。だいじょうぶだいじょうぶ」

梓「そうそう、純さまが完璧にやってくれるんだもんね」

 愛の無い言い方だ。

純「愛のない言い方だねオイ!」

 あっ、弦切れた。



408 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:30:19.87 ID:zfJwbUoUO [127/192]
 
 武道館ライブまで残り10日。

唯「打たせ湯きもちいー」ホワァ

紬「いつもそんなことやってるの、唯ちゃん?」

唯「!? いや……幻覚とは話さない主義だから」

紬「幻ってことにしてもらえるとこっちとしても都合がいいわ」ボチャボチャ

唯「ちゃんと湯船の外に鼻血を落としてよ、紬」


410 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:36:10.70 ID:zfJwbUoUO [128/192]
 
 武道館ライブ前日。

 いや、もう当日か。

憂「……」ムクッ

 まったく眠れない。

 ライブは昼過ぎからだから、今眠れなくても大きな問題は無いんだけれど。

 なんだか「眠れない」っていう事柄自体が、やけに不安をかきたてる。

 本来感じるはず以上の不安に支配されている。

 姉と会うだけでここまで緊張するというのもおかしい。

 生き別れの姉妹かと。

 徳光泣くぞ。

 あれっ、何で徳光の泣き顔を思い出してるんだろう私。

憂「……」ボフッ

 不愉快だ。寝ちゃおう。

憂「……すー」


411 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:40:23.10 ID:zfJwbUoUO [129/192]

 九段下駅

純「おー、いたいた!」

梓「武道館ライブに遅刻するやつがいますか、ほんとに……」ブツクサ

 ライブにギター持ってくるやつもいないと思うけど。

 梓ちゃんはギターケースを背負っている。客席でムスタングをしゃんしゃん弾くつもりだろうか。

純「ごめんごめん、緊張して一睡もしてないんだ!」

梓「一睡もしてなかったらかえって早く来れない?」

純「実は起きるべき時間に寝ちゃいました」

梓「最低だよコイツ……」

憂「まあ、私もちょっと眠れなかったけど」

 他愛ない話をしつつ、私たちは列に並ぶ。

 動いていないように見えて、それは意外とスムーズで。

 私たちは30分程度でチケットを切り、入場できた。


413 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 12:45:20.98 ID:zfJwbUoUO [130/192]
 
純「ああ、そう」

 騒がしい中、純ちゃんが聞えよがしに言った。

純「さっきさあ、梓に最低っていわれたけどさぁ」

純「最低ついでに、もうちょっと堕ちていい?」

憂「えっ」

 嫌な予感しかしない。

梓「なになに、純が貶められるなら私聞くよ」

純「よーし、よく聞きたまえ!」

純「楽屋訪問の件、ドタキャンされましたー!」

憂「えっ」

憂「えっ……?」ウルウル


415 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:00:17.37 ID:zfJwbUoUO [131/192]
 
純「……ごめん」

憂「嘘だよぉ……」

純「私に任せてくれたのに、ほんとごめん」

純「昨日の夜、電話かかってきてさ……私もどうしていいかわからなくて」

 それで眠れなかったのか。

 純ちゃんも、私も。

憂「ばかぁ……純ちゃんのばかっ」

純「……ほんと、ごめんっ……出しゃばって、余計なことしなきゃよかった……」

梓「純……ほんとうなの?」フルフル

純「梓もごめん。先輩方に会えるの楽しみにしてたよね……」

純「二人とも、私を殴っていいよ」

 純ちゃんは身構えるわけでもなく、そこにだらりと立って、目を閉じた。

 痛いように殴ってくれ、というわけだ。


417 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:05:34.44 ID:zfJwbUoUO [132/192]
 
梓「……バカ純」

憂「ほんと。馬鹿だね」

 私は純ちゃんの手を握る。

 梓ちゃんは私の顔を見ると、微笑んで、反対側の純ちゃんの手を取った。

憂「こんなところにいたら邪魔になるよ。私たちの席に行こうよ」

純「うい……」

 純ちゃんは俯いて、苦しそうに奥歯を噛んだ。

純「ありがとう……っ」

憂「純ちゃんはひとつだって悪いことしてないよ」

憂「そりゃあ、そう聞いたら落ち込んじゃったけど……でも、これが最後のチャンスじゃないから」ニコッ

 そう言って笑った私の顔は、きっと悲しげだったんだと思う。

 私の目を見つめた純ちゃんの目尻に、涙が浮いた。

憂「行こう?」

 私たちは手をつないだまま、ゆっくりと歩いて最前列の席へと向かった。


418 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:10:49.13 ID:zfJwbUoUO [133/192]
 
 純ちゃんには強がって見せたけれど。

 本当のところ、私はかなり落ち込んでいた。

 ライブが始まって、先輩方みんなの姿が出てきても、いまいち気持ちが盛り上がって来ない。

 姉の姿を見つめて、私は最前列にいるけれど、やっぱり遠くにいるなあ、と感じるばかりで。

 尿意もないのに、トイレに行きたくなってきた。

憂「純ちゃん、ちょっとごめん。私トイレ」スッ

純「ちょ、ちょちょっと! どこいくの、憂!」ガシッ

 慌てた様子で、純ちゃんが私の手首をつかまえた。

憂「わっと……と、トイレだよ」

純「な、なに言ってんの! いま最高に盛り上がってるとこじゃん!」

 そうなんだろうか。私にはわからない。


419 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:15:33.36 ID:zfJwbUoUO [134/192]
 
憂「でも、我慢できないし……」

 私は純ちゃんの手をほどいて、行ってしまおうとした。

純「わあああっ!! 待って待って、行かないで!」

 しかし、ほどいてもほどいても純ちゃんの手はしつこく絡みついてきた。

 このタコ。

純「ど、どどうしても無理だっていうなら私が飲むからっ! むしろ食うから! だからトイレにだけはいっちゃだめぇ!」

 いや、それが無理だっていう。

 そもそも出ないんだけどさ。

憂「わ、わかったから! そんなこと大きな声で言わないでよ……」

純「よかったぁ……ありがとう憂」

梓「あっ、カレー終わっちゃう……」

 梓ちゃんが残念そうに漏らした。いや、話の流れ上疑わしいけど、変なものは漏らしてないよ? 

 ステージ上では、それぞれ演奏の決めポーズをとっていた。これだけ見るとさすがに滑稽だ。

 皆さんごめんなさい。


421 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:20:22.10 ID:zfJwbUoUO [135/192]
 
 拍手が鳴りやんでから、律さんが立ち上がってマイクをとる。

 そして、ゆっくり姉に近づいていくと、拳を掲げて叫んだ。

律「よおぉーし! それじゃ次の曲ぅ! ……の、前に?」

 律さんは首をかしげて、マイクを姉の口元に近づけた。

唯「私の方から、客席にいるある人物に、お伝えしたいことがあります」

憂「……?」

律「なぁにぃ!! これはまさかの逆プロポーズかぁ!? 待つんだ唯、私たちまだ高校生なんだぞーっ!!」

澪「行きすぎな冗談はよせ!」ゴチン

律「あいた! いてぇよ澪ー」スリスリ

梓「今の、澪先輩がつっこまなかったら死者出てるよ」

純「それは言いすぎじゃ……」


422 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:25:37.33 ID:zfJwbUoUO [136/192]
 
 姉はマイクをスタンドから抜くと、私のほうに靴を鳴らして近づいてきた。

唯「でも、単なる律のいつもの冗談ではないかも」

唯「これから私、その人に……ずっと一緒にいてって頼むんだから」

律「おい、どうする澪! 冗談がマジになっちまったぞ!」

紬「私よっ、それは私よっ!!」ビュビュー

律「どうするムギ……ってやばい、これはやばいから! ああもう、ほら抑えろ!」シュボ

紬「わらひの唯ちゃんらのっ」ギュム

唯「ふふ……それじゃ、発表していい? だめって言われても言うけどね」

 会場中から沸き上がる「だめー!」の悲鳴。

梓「ゆ、唯先輩なにするつもりなの……?」

純「わ、わかんないけど……こっち、見てない?」

憂「……!」


424 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:30:36.01 ID:zfJwbUoUO [137/192]
 
唯「その人は……たった一人の私の妹です」

 姉はセットしていた髪をくしゃっとかきあげると、そのままぐしゃぐしゃと揉み、潰し、ふわふわにしていく。

唯「かけがえのない存在……だからこそ、私は妹に愛されていると慢心していました」フワッ

 そして、衣装の襟首に付けていたヘアピンを取り、前髪をよけてるように留める。

唯「私はいつしか、妹の気持ちも考えず、音楽に没頭してしまっていたんです」スッ

 もうひとつ。

唯「だから……昔のような関係に戻りたい。妹をかえりみなかった馬鹿なお姉ちゃんだけど、またなんでも一緒にやりたい」スッ

 お姉ちゃんは顔を上げた。

 そこに居たのは。

純「きゃー!! 白唯だああああー!!」ピョンピョン

憂「……お姉ちゃんだ」


425 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:35:26.09 ID:zfJwbUoUO [138/192]
 
 なるほど、そうか。

 純ちゃんは、私が「落差」に弱い事を知っている。

 そこを逆に利用しようっていう魂胆だ。

 楽屋訪問はドタキャンされたとか言っておいて、こういうサプライズをよこす。

憂「おねえちゃんだぁ……」ボロボロ

 やめてよ、泣いちゃうから。

唯「おいで、憂。……一緒にやろう?」

 お姉ちゃんがステージを下りてきて、私の前に立った。

 鼻水が出る。

憂「おれえちゃあん!!」ガバッ

 この衣装、きっと高いんだろうけど。

 私は鼻水まみれの顔で、お姉ちゃんにとびついていた。


426 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:40:17.61 ID:zfJwbUoUO [139/192]
 
憂「おねえちゃん、おねえちゃんだよねっ」

唯「うん、お姉ちゃんだよ」ギュッ

 武道館が静まりかえっていることに、ようやく気付いた。

憂「わたしと一緒にいてくれるの?」

唯「うん。ずっと一緒」ギュウッ

憂「わたしのこと、怒ってないの?」

唯「怒られるのは私のほう。憂とぜんぜん一緒にいてあげなくて、ごめんね」

憂「うっうう……」プルプル

 あーあ、恥ずかしいよこれ。

 とんでもない人数が注目する中で、私、子供みたいに大泣きしちゃうよ。

憂「おねえちゃあん……」ポロッ

憂「ずっと、ずっと、さびしかったよおおっ!!」ボロボロ

唯「うん……ごめん」ギュ

唯「ごめんっ……」ギュウ


428 名前:>>427 あとちょっとだけ[] 投稿日:2010/08/20(金) 13:45:17.44 ID:zfJwbUoUO [140/192]
 
憂「……っひ」グス

唯「落ち着いた?」

憂「……うん」

唯「じゃあ、お姉ちゃんと一緒にやろう?」

憂「うんっ」

梓「憂、これを持っていって」

 梓ちゃんが一歩私たちに近寄って、ギターケースを開いた。

 そこにはお姉ちゃんとおそろいのレスポール――

 が、なんでここにいるの?

梓「純が一晩で持ってきてくれたよ」

純「いやー、憂相手の潜入ミッションだけはもう勘弁だね」

憂「二人とも……」

 この犯罪者集団め。ふざけんなありがとう。


431 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:00:11.15 ID:zfJwbUoUO [141/192]
 
 ストラップを肩にかける。

 お姉ちゃんが感じているのと同じ重みがかかる。

憂「へへ……」

唯「ふふ……」

 お姉ちゃんに手を引かれて、武道館のステージに。

 同時に、会場中から拍手が巻き起こる。

 この快感、はんぱじゃない。

 戸惑う私に、律さんがドヤ顔でマイクを向けた。

 なんか喋れってか。

憂「え、えっと。はじめまして、平沢唯の妹の、平沢憂です!」

 反響する「ういちゃーん!」の歓声。ぱらぱらと混じる「かわいいー!」の絶叫。

憂「その、私はお姉ちゃんを追いかけて、ギター始めました!」

憂「ギターに夢中になっちゃったお姉ちゃんと、それでも一緒になにかやりたかったんです!」

憂「今こうして、お姉ちゃんと一緒にこのステージに立っていられて、すっごく幸せです! 夢みたいです!」

432 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:05:24.15 ID:zfJwbUoUO [142/192]
 
憂「えっと、その。あ、あたたたかかい目で見守ってくだひゃい!」

 はい、噛んだ。

 「かわういー!!」だって。

 さすがお姉ちゃんのファン。あたたたかかい。

 さて、ひとまず喋りはひと段落したけれども、なんだか様子がおかしい。

唯「うん、うん、いいね」

 お姉ちゃんがチューニングしてる。私のギターを。

 え? なんですかそのプラグ。勝手にギターにつながないでください。

 いやそもそもなんで私ギター持ってるの? え?

律「じゃあ感動の幕間があったところで、次の曲いきますかぁ!」

 ちょっと待って、まだ幕は垂れたままですよ。

 澪さん! どうしてつっこまないの!

紬「あきらめなさい、憂ちゃん。誰もがあなたが一曲やってくれるものと思ってるわよ」

憂「えっ」


433 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:10:37.81 ID:zfJwbUoUO [143/192]
 
憂「えぇっ!?」

律「次の曲はみんな大好き、かわいいラブソング! なんと澪ちゃん作詞!」

澪「わ、わたしの恋はホッチキス!!」

唯「ほら、頑張ろう憂。学園祭の時はどっちをやってたの?」

憂「えっと……どっちもリードだけど……」

唯「じゃあ、それでいこう」チラッ

 お姉ちゃんが律さんに目線を送った。

 そして、律さんがスティックを打ち鳴らす音。ドラムが入る。

 文字にならない歓声。

 もう知るか。

 そっちが犠牲を覚悟の上だってんならもう、知らない。

 好きなだけやらせてもらおうじゃん。


434 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:15:05.12 ID:zfJwbUoUO [144/192]
 
――――

律「以上、平沢憂さんでしたー! 憂ちゃんありがとー!!」

 オウム返し、ではないけれど「ありがとー!」が跳ね返ってくる。

 こっぱずかしいけれど、私は両手を振って応えた。

 なんぞこの大歓声。

 これが人の声だというのか。

 群衆の力ってこええ。

 名残惜しい気もしたけれど、ここは桜高軽音部のステージであって、私とお姉ちゃんの私物ではないから。

 一段一段、私は一般人の舞台へと降りて行った。

 私は振り返る。きっと私は、すごく自信に溢れた表情になっていただろう。

憂「いつか必ず、そっちに行くからね、お姉ちゃん!」

憂「待ってて!」

唯「うん! 憂ならすぐ来れるよ! 待ってるからねー!」


435 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:20:18.79 ID:zfJwbUoUO [145/192]
 
 席についても、まだフワフワした感じが抜けない。

純「カッコよかったぞ~憂!」

 純ちゃんが親指を立てる。

憂「へへ……気持ちよかった」クタッ

 私はそれに対して、だらしなく笑い返した。

 また、お姉ちゃんの歌が始まる。

 耳が気持ちいい。

 お姉ちゃんの歌声だ。……こんなに綺麗だったんだ。


436 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:25:13.56 ID:zfJwbUoUO [146/192]
 
――――

前略

 久しぶり、父さん。父さんの娘の唯です。

 まず初めに、10年前のこと。ごめんなさい。

 こんなこと言って欲しくないと思うけど、ごめんなさい。

 すべては私から始まったことだったよね。

 私のせいで、父さんは私たちの遠くに行っちゃったんだよね。本当にごめんなさい。

 だから私は、父さんと母さんの代わりに、憂の父さんと母さんをしなきゃいけないんだと思います。

 ……思っただけでした。

 4年前からつい昨日まで、私は憂の両親として在ることができませんでした。

 家事をやる、お金を稼ぐ、それだけが親の仕事ではないんですよね。

 それに気付くのが遅れて、憂を傷つけてしまいました。

 お父さんからみんな奪っておきながら、こんな浅はかな娘でごめんなさい。


438 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:30:11.57 ID:zfJwbUoUO [147/192]
 
 でも先日、私はようやく胸を張って、「憂は立派になったよ」と自慢できるようになりました。

 だからこそ、こうして大慌てで父さんに手紙をしたためています。

 実は昨日、日付でいうと11月25日、私たち桜高軽音部は日本武道館で1周年記念ライブを行いました。

 1周年とはいっても、何の1周年やらいまいち分かりませんが。

 私はそこで、これから色んなことを憂とやっていきたい、というふうに言いました。

 私も憂も、何につけても二人で協力し合うのが大好きだったのです。

 どうして私は、それを今まで忘れていたんでしょう。本当に馬鹿な姉です。

 私と憂は少し想いを違えていましたが、その日ようやく私たちの気持ちはひとつになりました。

 これから憂は、めいっぱいギターの練習をするそうです。

 そして私に追いついて、またお姉ちゃんと一緒に、恥ずかしくない演奏で武道館ライブをやりたい、と語ってくれました。

 正直、そんな言葉を聞かされると、私もまた修業しなければなあ、というふうな焦りがでてきます。

 青は藍より。ですけれど、一瞬で抜かされては私も形無しですし、青といえども空色となりかねません。

 まあ、早く追いついてきて欲しいな、というのが本音ですが。


439 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:35:36.83 ID:zfJwbUoUO [148/192]
 
 憂は、自分の突き進んでいく方向をようやくしっかりと見定めたんです。

 父さんにも、納得はいかないかもしれないけど、応援してほしいと思います。

 せめて立派に育った私たちの姿を見てほしいと思い、

 ライブ中の私たちの姿を収めた写真を同封しておきました。

 どうか、いつか会いに来て下さい。

 私たちの暮らした家で待っています。


 父さんへ 平沢唯より


440 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:40:14.97 ID:zfJwbUoUO [149/192]
 
 追伸

 シャワーを高いところにかけて、お湯を背中に当てて

 「打たせ湯きもちいー」ってやるの教えてくれたの、父さんだっけ?



 終わり。



441 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 14:45:26.76 ID:zfJwbUoUO [150/192]
 
梓「うふふ」ポワー

憂「いろんな意味で酔いしれる作品だったね」

梓「この唯先輩だったら欲しい……」

憂「ざんねん。お姉ちゃんは全て私のものです」

梓「くっ……」

 ガラッ

律「おい梓、おせーぞ?」

梓「あっ、律。迎えに来てくれたの?」

律「えっ」

憂「ごめんなさい。一過性の厨二病ですからほっといてあげてください」

梓「面白い事言うね。まあ、待たせちゃってごめんね? 私も今から行くから」スタスタ

律「あ、ああ……ねえ憂ちゃん、どうしたのあの子」

憂「変な電波を受信しただけですよ。えっと、これです」バサッ


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