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律「かわいい陰謀」

1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:05:30.80 ID:suiBCelg0 [1/30]
 際立った特徴のない住宅街の一角。
 
 右手で傘を差し、左手で水玉模様の入った小さな紙袋を胸の前で大事に抱え、田井中律は白い息を吐きながら歩いていた。
 
 街には雪が降っていた。ゆらゆらと風に揺れながら、一枚の羽根のように重さを感じさせない挙動で、それは鉛色の空から地上に向かって舞い降りてくる。
 
 でも、それがどこへ向かっているのかは律にはわからない。
 
 なにせ自分がどこへ向かって歩いているのかさえわからないのだから、雪がどこに向かって落ちているかなんて律にはわかるはずがなかった。

3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:11:16.39 ID:suiBCelg0
 まるでロボットになったかのように、両足が機械的な動きで交互に地を蹴っていく。

 その反復運動は意識的ではなく、殆んど無意識的に行われていて、地面を蹴る感覚さえない。

 視覚によってかろうじて自分が歩いているのだと、地を蹴っているのだと理解することができたが、実感することはできなかった。

 他人の身体に意識だけが乗り移ったかのように、自分の感覚はそこに存在しないようだった。
 
 それにここは、この世界はやけに現実感がないように律には感じられた。すべてがはっきりしない。
 
 広げられた右の掌に落ちたひとひらの雪。それを握り締めて開くと、そこにはもうなにも、なにものも存在しない。すべてが薄く、すべてが曖昧だった。

4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:15:38.24 ID:suiBCelg0
 雪が降っていることから季節は冬であるはずなのに、寒さも感じることがない。

 気温というものも、律にはあるのかないのかわからない。
 
 視界もぼんやりとしていた。
 
 けれど、足の裏を通して地面を実感できなくても、雪の降る冬の寒さを感じられなくても、視界が結露が生じているかのようであっても、それらを特に気にかけることはなかった。

 それが当たり前であるかのように。
 
 依然として降り続ける雪のように、自分がどこを目指して歩いているのかということさえ律は理解していなかったが、それでも歩みに迷いはなかった。

5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:21:05.78 ID:suiBCelg0
 人気の全く無い道路をなにかに引っ張られるように淡々と進んだ。
 
 いつしか律は、とある一軒家の玄関の前で立ち止まった。

 車一台分の駐車スペースを有する二階建ての一軒家。

 ここになんの用があって来たのだろうか。

 そんな疑問も、今の律には沸いてはこない。

 思考能力が正常ではないのだ。
 
 雪はいつの間にか降り止んでいた。

 が、やはりというべきか、律は気づいていなかった。
 
 突然、今の季節には不似合いなセミの鳴声が聞こえてきた。
 
 ――セミ?
 
 声には出さなかったものの、律はセミの鳴声には素早く反応した。その姿を確認しようと、ぐるりと周囲を見回す。

6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:27:47.22 ID:suiBCelg0
 が、どこにもセミは見当たらない。

 律の目に映った景色は暗色に満ちた冬のそれで、セミの存在など微塵も感じとることができないものだった。

 冬であれば地中にいるはずなのだから、セミがいないのは当然と言える。

 では、今のは錯覚だったのだろうか。
 
 疑問を深める間もなく全身に強烈な熱気を感じ、右足首には痒みが走った。

 どこか鈍感になっていた律もこれには驚いて、痒みのある足元に視線を落す。
 
 傍でガチャリと金属音が鳴り、軋んだ音がした。

 扉の開く音だ。
 
 律の視線が徐々に開かれていく玄関扉をとらえようとする。
 
 そして、不意に目をつむる。
 
 次に瞼を上げたとき、玄関扉は真っ白な天井に変わっていた。


7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:33:17.41 ID:suiBCelg0

 見慣れた天井だった。
 
 それもそのはず、その天井は自分の部屋のものなのだから見慣れていて当然だった。
 
 どうやら今まで夢を見ていたらしい。

 既視感のある、どこか懐かしさを感じる夢だった気がする。

 どんな夢か思い出そうとしても、イメージが上手く浮かび上がらないのが律には残念だった。
 
 窓辺に吊るされた風鈴が涼やかな音色を響かせている。

 だが、それで涼しさを感じとれというのは、今の律にとっては無理難題な話だ。

 部屋のなかはサウナを思わせるほどの熱気で満ちていて、今の状態であれば火に包まれていても気づかないかもしれないぐらいに身体が熱いのだ。

8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:38:51.46 ID:suiBCelg0
 外からは風と共にセミの不協和音が部屋へ流れ込んできて、風鈴の音を邪魔していた。

 夢の中で聞こえてきたのはこれが原因だな、とため息を吐く。
 
 ベッドから重たい身体を半身だけ起こして、律はなんとなしに部屋を見回した。

 起きたばかりの所為か、仏像のような半眼の状態だ。
 
 あれ? あたし、なにしてたんだっけ?

 ぼんやりしながらも、寝るまえに自分がなにをしていたのか、眉間にシワを作りながら思い出そうとする。
 
 そして、欠伸を二度ほどした後にようやく思い出した。

 メールの返信を待っていたのだ。

 そのメールを待っているうちに寝てしまったのだろう、と律は置かれた状況を理解する。

9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:44:17.93 ID:suiBCelg0
 きょろきょろと目を巡らせて携帯電話を探す。

 携帯は枕元にあった。

 手にとって画面を確認すると、メールを受信していることを知らせるアイコンが画面に表示されていた。

 どうやら寝ている間にメールが届いていたらしい。

 受信フォルダを開き、先頭に来ているメールの差出人の名前を見る。

 差出人は秋山澪。

 澪は部活仲間であり、律の一番の親友だ。

 そして、メールの返信を待っていた相手でもある。

 手馴れた指捌きで澪のメールを開いて文面を見る。

10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:49:23.20 ID:suiBCelg0
「はぁ……」

 メールの内容を見て思わずため息を漏らしてしまった。

 夏休みも終わりに近づいている今日。

 本来なら高校三年生である律は受験を見据えて勉強をしているところであったが、連日の勉強漬けと猛暑のダブルアタックにすっかりやる気が失せていた。

 そこで気分転換に遊ぼうと、澪に誘いの電話をしたものの繋がらず、代わりにメールを送ったのだが、ため息から判るとおり返信のメールは誘いを断る旨のものだった。

11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:51:26.03 ID:suiBCelg0
「つまんねっー! あっついし……」

 遊び仲間を一人失ったことにがっかりして、ベッド上で独り言つ。

 肩を落としながら携帯で時間を確認すると、現在の時刻は十五時を過ぎていた。

 今から澪以外の人を誘ったとしても、直ぐに日が暮れてしまうだろう。

 それに都合よく暇を持て余してる人がいるとは律には思えなかった。

 が、ふと一人の友人の顔が頭に浮かんだ。

 平沢唯。

 秋山澪と同じく律の部活仲間であり友人である。

 いや、今では親友と言っても差し支えないほどの仲になっているはずだ。

12 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:53:02.80 ID:suiBCelg0
 ――唯なら暇そうだな。

 居間でごろごろと寝転がっている唯を思い浮かべて律は思った。

 不真面目な性格とは言わないが、この暑さの中で真面目に机に向かって勉強している図は想像し難い。

 唯は冷房が苦手なのでエアコンもつけられない。

 恐らくは干からびたカエルのように今も伸びているはずだ。

 携帯の画面に電話帳を表示し、唯の電話番号に発信する。

 携帯に耳を当てて唯が出るのを待った。

 しかし、唯は一向に出てこずに留守電音声が流れてきてしまった。

「留守かよ…………ま、いっか」

 律はあっさり遊び仲間を募ることを諦めてベッドから立ち上がる。

 ――大事な用でもないしわざわざ呼び出すこともないか。予想と違って真面目に勉強してたら悪いしな。

13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:54:18.08 ID:suiBCelg0
 欠伸をしながら伸びをして身体を軽くほぐし、携帯をテーブルに置いて部屋から出た。

 一階へ下りてみると人気がなく、物音一つ聞こえてこない。

 それとは反対に、大量の目覚まし時計が鳴り響くように蝉時雨が家の中まで聞こえてきていた。

 リビングにも家族の姿はなかった。

 喉が渇いていたので、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出してコップへ注いで飲んだ。

 寝起きの胃にひんやりとした刺激が走り、熱を帯びた体が微かに冷めていく感覚。

 もう一度注いで飲み、麦茶を冷蔵庫へ閉まった。

14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:55:19.67 ID:suiBCelg0
 右足首の痒みが気になったので見てみると、予想通りと言うべきか蚊に刺されていた。

 痒み止めを持ってきて、右足首の患部に何度か塗布する。

「寝ているときに刺すなんて卑怯だよなぁ。刺すなら刺すで正々堂々と真っ向勝負しろっての」
 
 体格差を考えればあってもいいハンデだったが、文句を言わずにはいられなかった。

 乙女の柔肌の価値は高いのだ。

 このぐらいの文句は言ってもいいだろうと律は思う。

 痒みに顔をしかめながら、患部に爪で十字の痕をつけてみる。

 こうすると痒みが和らぐ気がして、刺されたときはよく痕をつけるのだ。

16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:56:22.50 ID:suiBCelg0
 洗面所行ってトイレに入り、洗顔もした。

 先ほどの麦茶ほど水は冷たくはなかったが、涼しさを感じるには十分にひんやりとしていて心地良い。

 濡らした顔をフェイスタオルで拭いて、律は鏡に映る自分に意味もなく笑いかけてみる。

 鏡の中の自分が乱れた髪も気にせずに笑い返してくるのを見て思わず苦笑してしまう。

 乱れた髪を手櫛である程度整えて、洗面所を後にした。

 あまりにも家の中が静かなので部屋を回ってみたが、母親と弟の姿は見当たらなかった。

 どこかへ出掛けたのだろう。

17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:57:36.48 ID:suiBCelg0
 リビングに戻って扇風機の前に座った律は、扇風機のスイッチを入れた。

 人工的な風が律の顔を煽ぎ、短めの髪を揺らす。

 そして、定番でありお約束の行動をとる。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~~」
 
 だれもがやったことがあるはずだ。

 扇風機に向かって声を発すると、声が震えて聞こえるという科学現象。

「実に面白い! じゃなかった……ワ・レ・ワ・レ・ハ・ウ・チ・ュ・ウ・ジ・ン・ダ」
 
 もちろん、ここにいるのは探偵ガリレオでも宇宙人でもない。ただの女子高生だ。

 ふくらみのない胸のところまでTシャツをまくって、人気グラビアアイドルの半分にも満たないセクシーさを醸し出しながら声を発し続けた。

 あ行を一通り言い終わって、やっと満足して口を閉ざす。

18 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 22:58:58.22 ID:suiBCelg0
 体は一連の冷却作業によって随分と涼しさを感じるようになっていた。

 だが、まだ足りないものがあった。

 アイスだ。

 アイスを食べることで、この冷却ミッションはコンプリートされるのだ。

 立ち上がって再び冷蔵庫のもとへ。

 冷蔵庫を開ける。

 が、アイスはどこにも見当たらない。

 この夏の真っ盛りにアイスが置いていないのは一大事だ。

 生命の危機だ。

 アイスがなければ地球温暖化に拍車がかかってしまうぐらい大変だ。

 それは嘘だが大変であることには変わりない。

19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:04:19.50 ID:suiBCelg0
 しかし、外に買いに出るということは熱波の攻防最前線よろしく、セミの小便爆撃の嵐をかいくぐり、直射日光オン紫外線の無限照射に耐えなければならない。

 果たして、今の自分にこの高難易度なミッションが完遂できるのか。

 頭を抱えながら律は自問する。

 結論。

「無理だな……てか嫌だ」

 アイスよさらば。

20 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:10:04.94 ID:suiBCelg0
「いや……この暑さの中で勝ち取ったアイスは、グランドラインを踏破して手に入れるワンピースと同じようなもんだ! アイスよ、待っていてくれ」

 暑さで頭がやられたわけじゃなく、家に一人残されて寂しいというわけでもなく、ましてや某少年漫画を思い浮かべてハイテンションになったわけでも当然ない。

 そこにアイスがあれば、人は演技せざるを得ないのだ。

 というのは嘘で、家に居ても特にやることがないし、それなら少しでも外で出て暇つぶしの足しにした方が良いと律は思ったのだ。

 部屋に戻って外着に着替えて外出の準備をする。

 愛用のカチューシャを仕上げに装着して準備万端。

 少年漫画の某白バイ警官は愛用バイクに跨ると人格が変化するが、律の場合はカチューシャを装着しても人格はそのままだ。

 だが、カチューシャを着けると太陽拳を繰り出しそうなほど額の露出面積が増える。

 太陽光発電さえできそうな具合にだ。

 人間ソーラーシステムここにあり。

22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:15:42.49 ID:suiBCelg0
 部屋の窓を閉じてから、テーブルに置いてある携帯を手に取った。

 新着のお知らせはなかった。

 それ自体にさして驚きはない。

 ただ、だれかが暇つぶしに手を貸してくれるんじゃないかという淡い期待はあったので、少し残念ではあった。

 家の戸締りを簡単に確認して玄関へ。

 家から一歩踏み出したら、そこはもう戦場だ。

「準備はいいか? 律隊員」

 その問いに頬を緩めながら首肯する。

 ドアノブを掴んで、回す。そして押し開く。

 律は扉の向こうに広がる夏の住宅街へと飛び出した

24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:22:21.23 ID:suiBCelg0
 外に出てすぐに、突き刺さるような陽射しを浴びた。

 これぞ日光浴、と暢気には言っていられないほど力強い陽射しが容赦なしに肌に照りつける。

 海に行けば多くの人間が、この太陽にありがたがって肌を焼いているところを見られることだろう。

 けれど、今の律にとっての太陽は敵以外のなにものでもなかった。

 海を目指しているわけではないのだ。

 目指すは都会のオアシスであるコンビニ。

 ミッションその一の直射日光は、我慢して耐えるしかない。

 ではミッションその二はどうか。

 セミの小便爆撃を切り抜ける。

 これは問題なかった。

 路上に覆い被さるような木がないので、直撃する可能性は零に等しい。

 棒アイスの当たりが出る確率より低そうだ。

 万が一直撃なんてことがあったら、己の不運を嘆くしかないだろう。

25 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:28:14.82 ID:suiBCelg0
 律は路脇を歩きながら、限りなく広がる夏空を仰ぎ見る。

 空の色は力強い青で、大きくて雄大な雲がその中を気持ちよさそうに泳いでいた。

 家を出てから、どれだけ時間が経っただろうか。

 首の裏や背中に汗が噴き出してきて、シャツが背中にぴたっと張りついてくる。

 真昼間の気温と比べれば、現在の気温は少しは下がっているはずだが、この暑さでは一度、二度下がったところじゃ違いを体感できないみたいだ。

 風も吹いてはいるものの、生温いとあっては用を成さない。

 アスファルトの照り返しも厳しい。

 まるで地球全体がサウナになって、その中にいるようだった。

「生き地獄ってこんななのかな」律はぼそりと呟いた。

 蜃気楼にまみれた道を、おぼつかない足どりで律は進みつづける。

 オアシスはまだ遠い。

27 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:34:07.56 ID:suiBCelg0

 砂漠で遭難者がやっとの思いでオアシスを見つけたとき、どのような気持ちで眼前の光景を眺めるのだろうか。

 コンビニの看板を目でとらえたとき、律はそんなことを考えてしまった。

 やっとのことで辿り着いた国内大手のコンビニチェーン『ハイソン』。

 これまでにこのコンビニは現代の遭難者をどれだけ救ってきただろう。

 この国に住んでいるだれもがハイソンを利用し、「ハイソンバンザーイ!」とコンビニユーザーに言わしめるほどのコンビニなのだ。

 その数は尋常ではないはずだ。

 今の律は大声で「ハイソンバンザーイ!」と叫びたい気分だった。

 もちろん、実行には移さないが。

 コンビニの駐車場に足を踏み入れ、入り口へ向って歩く。

 そのとき、たまたまよく知った人物を発見してしまった。

 雑誌の陳列棚の前で澪が立ち読みをしていたのだ。

 しかし、ここで一つの疑問が出てくる。

 澪は用事があったはずなのだ。

 どうしてこんなところにいるのだろう。

 律は首を傾げながら自動ドアを開ける。

28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:40:45.08 ID:suiBCelg0
 店内は冷房がよく効いていて、汗が急速に冷やされる感じがした。

 律は気づかれないように注意しながら澪の背後へと忍び寄る。

 さて、どうやって驚かせようかと一瞬思案し即決。

 ここはベタに抱きついて脅かすことにした。

「なーに読んでんの?」と言いながら、澪の肉付きの良さそうなお腹回りに両手を回す。

「っ!?」澪は驚いたのか驚いていないのか曖昧な反応で、背筋をぴんと張っただけだった。

「澪?」
 
 全く反応しないのでもう一度声をかけてみたものの、それにも反応はない。

 お腹に回していた両手をほどいて、横に立って表情を窺うと、目と口を開けたまま澪は固まっていた。

29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:46:49.03 ID:suiBCelg0
「おーい、生きてるかー?」

 その声に反応してか、ホラー映画の中で西洋人形がひとりでに首をかくかくと回してカメラ目線になるように、澪もゆっくりと、きわめてゆっくりと首を回して律に顔を向けた。

 よく見ると目は笑っていないのに、口元は薄っすらと笑みを浮かべていた。

 これがなかなかホラーな顔だった。

 ホラー顔のまま、口がわずかに形を変える。

「おは、よう」

「うっ……もうすぐ夕方なんだけど」
 
 澪の声のトーンがいつもより低くて、律はちょっとたじろいでしまう。

30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:52:41.48 ID:suiBCelg0
「そ、そっか」
 
 硬かった澪の表情にようやく動きが出てくる。それでもまだ別のことを考えているような顔ではあった。

「んで、用事は終わったの?」

「よ、用事ってなんのことだ? わたしはなにもしてないぞ」
 
 なにに動揺しているのかわからなかったが、澪の視線が泳ぎに泳ぐ。

「メールで言ってただろ。今日は用事があって遊べないって」

「え、あ、ああ、あれね。た、たまたま用事が早く済んだんだよ」

「ならさ、いまから家に来ない? 一人だと暇でさぁ」

「いま、から……だ、駄目。行けない」

「はあ? もう用事ないんだろ。だったらいいじゃーん」

31 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:54:14.25 ID:suiBCelg0
 律の軽い口調に対して、澪は俯いて目を逸らした。

 さっきから澪の喋りはどこかぎこちない。

 いつもなら気だるそうに相手をしてくるか、少しでもボケればツッコミが飛んでくるのに、それも今は期待できそうにない。

「今日は駄目」

「なんで? まだなんかやることあんの? 別に澪の家でもいいよ」

「とにかく今日は駄目。そのかわり……」

「そのかわり?」
 
 澪は手に持っていた雑誌をラックに戻し、身体ごと律に向き直る。

 そして、胸の前で両手をグーにし、声を身体の内側から絞り出すように澪は言い放つ。

「明日! 明日は絶対に律の家に行くからっ!」

「え、あ、うん……」
 
 先ほどまでとは打って変わって、はっきりとした口調だった。おそらく店中に聞こえただろう。

 その声音に思わず驚いて、相槌を打つだけになってしまう。

32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:55:35.64 ID:suiBCelg0
「だから明日は必ず家に居てくれ!」

「わ、わかった……」

「大事なことだから……さ」
 
 大声を出したと思ったら、今度もまた伏し目がちになる澪。

 床を観察する趣味なんてないはずだし、ピカピカに磨き上げられた床には汚れだって見当たらない。

 つまり声をかけてからの一連の妙な仕草にはなんらかの意味があるはずだ。それは予想するに、

「もしかして……澪さぁ」

「へっ?」
 
 律はいまや「謎は解けたよワトソンくん」とでも言い出しそうな、悟った顔をしている。

 それを見てなにを思ったのか、澪が顔面を引きつらせる。

「か――」

「うわあわあああああああああ!」

「なんだよ、まだなにも言ってないだろ」

「い、言わなくていいんだよっ」

33 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:56:28.63 ID:suiBCelg0
「かっぶぶぶっ!」

「だから言うなあああっ」
 
 二度目の発言も、澪によって律の口が塞がれ阻止される。

 だが、律もこのままでは終われない。

 口を塞ぐ澪の両手をどうにか剥がそうと必死に抵抗しながら、無理矢理にでも声をあげようともがく。

「かっぶぶぶぶっばっかっばぶっぶぶぶっばっ!」

「やあああああめえええええろおおおおおっ!」
 
 女子高生二人組みによる一進一退の謎の争いに終止符を打ったのは、見ず知らずのおばさんだった。

34 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:57:35.17 ID:suiBCelg0
「お客様ぁっっ!!! お! し! ず! か! に! おねがいしますぅ~」
 
 店員の証である制服に身を包んだそのおばさんは、最後に極上の接客スマイルを浮かべてみせる。

 その笑顔には次やったら容赦しねえぞという警告の意味合いが、多分に含まれている気がしてならない。

 これが俗に言うプロアルバイト!?

「す、すみません!」
 
 突如として現れたプロ店員に、先に反応して謝ったのは澪だった。

 満足そうな顔をしてレジへ戻っていくプロ店員を、澪は首だけ振り返りながら見送る。

 そのとき生まれた僅かな隙。口を塞いでいた手の力が緩んだのだ。

 油断大敵とは正にこのことを言うのだろう。

 敵の隙を突くのは戦いの基本だ。

 間違っても自分は卑怯ではない、と自分を納得させた律が隙を突いて口を開く。

35 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/20(金) 23:58:43.23 ID:suiBCelg0
「澪さん、なにか隠し事をしてますわねえ。おほほほー」と冗談めかした口調で律は言ってやった。
 
 瞬時に顔を向ける澪。

 その顔は再び硬直している。

 口を塞いでいた両手は、ゾンビのように宙に漂ったまま一歩遠のく。

 そう澪はなにか隠し事をしているのだ。

 そう考えれば、今までの不自然な言動にも説明がつく。

 隠し事の内容までは見当がつかないものの、すぐに暴いてみせる。

 したり顔でこの先の勝利までも確信しながら、律は目の前の澪の反応を待つ。

36 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:04:21.42 ID:wHYMb1YV0 [1/23]
 そして澪の口から零れたのは、

「しまっ…………」ポカーンと口を開けた間抜け面から、決定的ともとれる一言。

「ん~、なになにぃ? しまった? 今しまったって聞こえた気がするな~」

「ち、違う! そんなこと言うわけないだろ」

「じゃあなに言おうとしたんだよ」

「えっとそれは…………そ、そう! シマウマが外を歩いているなって、ははは」

「んなわけあるかっ」
 
 旗色が悪いと感じたのか、一歩二歩と後ずさる澪は、

「じゃ、じゃあ、わたしはそろそろ帰らないと。また明日な」

38 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:10:10.68 ID:wHYMb1YV0 [2/23]
 いきなり別れの挨拶をすると、踵を返して外へと駆け出した。

 いや、逃げ出したと言うべきか。

「あっ! おい、澪!」
 
 律も慌てて後を追いかけて外に出る。

 猛烈な熱気が身体を瞬時に覆っていき、コンビニまでの苦しい道程を想起させる。

 澪は既にコンビニの敷地外へ達していた。

「澪ーっ! 待てよーっ!」

 声をかけるものの澪が足を止める気配はない。

 一度だけ嘆息して覚悟を決めると、真夏の追走劇を開始した。

 陽は大分傾いてきていた。

39 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:15:19.70 ID:wHYMb1YV0 [3/23]
「ハァ……ハァ……ハァ……ハ、ハハ…………死ぬ……」

 律の姿は歩道にあった。

 膝に手をついて肩で息をするのが精一杯と見苦しい姿で。

 残念ながら真夏の追走劇は五分と経たずに終了した。

 というのも、澪の走りは半端ではなかったのだ。

 尻に火でも点けられたかのように走るは走る。

 あんなに足が速かったかなと、過去の体育での走りなどを思い出そうとしたぐらいなのである(熱さで頭が働かないので断念した)。

40 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:21:01.66 ID:wHYMb1YV0 [4/23]
 走り負けた原因は他にもある。

 蓄積疲労という奴だ。

 この猛暑の中を往復するなんて(しかも片道はダッシュだし)無茶というもの。

 今日の暑さの中で寝てしまった時点で勝負はついていたのかもしれない。

 結局、澪を途中で見失ってこの有様だ。

 いや、家に直接行くという手段もあったが、もう限界だった。

 そんな気力なんて出るはずがない。

「帰ろう……」

 そう力なく呟いたとき、頭に悪夢のような事実がこだました。

 ――アイス買ってねえ。

「なにしにコンビニ行ったんだよ……あたし」

41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:26:27.26 ID:wHYMb1YV0 [5/23]
 夕方のお散歩なのか、リールで繋がれた犬が傍を通ると、まるで律を励ますように吠えた。

 ここで諦めて良いのか! 諦めんなよ! おまえならできるって! そんなもんじゃないだろ!

 テレビで活躍する元テニスプレイヤーの熱血指導の如き声で犬は鳴く。

 だが、しかし、今の律にそんな激励は必要なかった。

 なぜなら律の足はとっくに家に向かって動き出していたからだ。

「……泣きたい気分だ……」

 空は夜へ向かって、様々な色が融け合いつつあった。

42 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:31:55.95 ID:wHYMb1YV0 [6/23]


 家に着いたときには、母親も弟の聡も帰ってきていた。

 冷房の効いたリビングにぐでんとうつ伏せに転がると、ゲームをしていた聡が声をかけてくる。

「姉ちゃん、どこ行ってたの?」
 
 それを訊くか! アイスを買いに行ったと思ったら、気がつくとアイスを買わずにコンビニを後にしていたというだれもが呆れる醜態を訊くのか!

 しばしどのように答えようか思案し、最終的に決まった答えは。

「修行……かな」

「なにそれ?」

43 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:39:04.98 ID:wHYMb1YV0 [7/23]
 ああ、そんな哀れみの目であたしを見ないで。

 突き刺さる聡の視線を両手でシャットアウト。

「なにしてんの?」

「なにもしてない」

「……暇ならこれやらない」

「はあ?」

 聡の指差す先にあるテレビ画面に映っていたのは、銃を持った筋肉隆々のアメリカンな感じの白人、黒人の方々。

 聡からコントローラーを突き出されては仕方ない。

 律は渋々起き上がって、コントローラーを受け取る。

44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:46:31.58 ID:wHYMb1YV0 [8/23]
「なにすんの?」

「ストーリモードを二人で協力して進めるのでいい?」

「なんでもいいけどさあ。やり方わかんないんだけど、あたし」

「やってれば自然と覚えるよ」

 聡がボタンを押すと、画面がぱっぱっとテンポよく切り替わっていく。

 武器の選択とかなんとかは聡に任せて、いざゲーム開始。

 上下に分かれた1Pと2Pのプレイ画面。

 その2P側に律の操るキャラクター、マイケルとか言うマッチョな白人さんが映っている。

「敵が出てきたら撃つだけだから」とぞんざいに言う聡。

 そう言われても操作方法がなかなか理解できず、カメラの視点がグルグル回ってしまう。

 2Pの画面には様々な角度から映し出されるマイケルの筋肉、筋肉、筋肉、そして笑顔。

 なんでこいつずっとスマイル全開なんだよ、というつっこみを律は内心入れつつコントローラーと格闘し続ける。

45 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:49:32.25 ID:wHYMb1YV0 [9/23]
 スタート地点から抜け出せない律を尻目に、聡は迫り来る敵を派手な発砲音を放ちながら押し退けていた。

 やり慣れているのか、そのキャラクター(ちなみに名前はマイケルジュニア。でも黒人)の動きに迷いはない。

 律がスタート地点からやっとのことで進み始めたころには、聡があらかた敵を倒したせいで敵と全く遭遇することがなかった。

 敵(ゾンビと獣が混じったようなクリーチャー)の死体を眺めるだけのハイキングゲーム状態だ。

 とうとうマイケルジュニアに追いつくことなく、画面にチェックポイント到達という文字が表示されてゲームセット。

「お、終わり?」

「もう一回やる? 今度はゆっくり進むから」

「……もういいや、なんか疲れたし」

 コントローラーを投げ出して、仰向けに寝転がる。

 大きくゆったりと呼吸をして、ため息一度。

46 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:52:44.97 ID:wHYMb1YV0 [10/23]
「そういえば」

「総入れ歯?」

「明日どうすんの?」

 さりげないボケを華麗にスルーされた。

 明日? 明日なんかあったっけ? 律は眉間にシワを寄せて考える。

「どうするって、なんかあったっけ?」

「忘れてんのかよ」

「はぁ? 忘れてるってなにをだよ?」

「明日は姉ちゃんの誕生日だろ」

47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:53:50.52 ID:wHYMb1YV0 [11/23]
 律の顔が未知の事柄に初めて触れたように、目を見開いて驚きの表情になる。

 誕生日? なにそれ美味しいの? などと思ってるわけではもちろんない。

 忘れていた。

 本当に忘れていたのだ。

 自分の誕生日を。

 律は驚きのあまり腹筋をフルに使って起き上がってしまう。

「そういや、そうだっけ……え、ってことは今日は二十日か……」

「もう夏休み終わるからね……」

 これが噂に聞く老化現象というものか。

 脳細胞がプチップチッと不吉な音を立てて死んでいってる気がして、律は頭を抱える。

「今年はケーキ無しかなあ」

 聡が残念そうに言った。

48 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:54:51.14 ID:wHYMb1YV0 [12/23]
「明日も暇だろうし、ケーキぐらいあたし……が……」

「どうかした?」

 そうか。そういうことか。

 律は右拳をグッと握って、口元をニヤリと大きく歪める。

「謎は解けたよ、ワトソンくん」

「ホームズ……?」

 腕組みをしながら、しばし考え込む。

 ――謎が解けた今、このままサプライズを黙って待つのは面白くないな。ここはそう、裏を掻いて相手を驚かそう。そうなると味方が欲しい。

 律はテーブルに置かれた携帯を手に取って、電話帳を表示する。

 画面には一人の軽音部員の名前。

「作戦開始っ」

 こうして通話ボタンのプッシュと同時に、律の逆サプライズ作戦が始まった。

49 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:55:44.89 ID:wHYMb1YV0 [13/23]
        ***


 スタンドミラーの前で、秋山澪は身だしなみを確認していた。

 色々な角度から自らの姿を見ようと身体を捻ったりする度に、その腰まで届きそうな長さの黒髪がさらさらと揺れる。

 本日、八月二十一日は親友である律の誕生日だ。

 そのためにここ数日かけて、律には秘密で軽音部の仲間たちとプレゼントを買いに行ったりした。

 すべては律の脅く顔を見るために、そして喜ぶ顔を見るために、サプライズで誕生日会を開くのだ。

51 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:56:39.75 ID:wHYMb1YV0 [14/23]
 誕生日を祝うだけなら、わざわざこんな回りくどいことをせずとも祝えるが、高校生最後の誕生日をありきたりな形で終わらせるのは勿体ない。

 澪がこの思いつきを話すと、軽音部の面々も快く賛同して、今日まで秘密を共有しながら隠し通してきた。

 それだけに昨日の出来事に澪は肝を冷やした。

 唯の家で作戦会議をした帰りに寄ったコンビニで、突然背後から律に抱きつかれたときは心臓が止まるかと思ったものだ。

 あげくの果てには隠し事があると指摘までされてしまった。

 でも隠し事の中身まではわかっていないだろうと澪は思う。

 サプライズなのだから、秘密は秘密でなければいけない。

52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:57:57.84 ID:wHYMb1YV0 [15/23]
 一通り身だしなみのチェックを終えて、鏡に向かって笑いかけてみた。

 鏡に映る澪はどこか眠たげな顔をしている。

 昨夜は熱帯夜で熟睡とはいかなかった。

 お休みタイマー設定のエアコンと扇風機を併用して寝たものの、結局は暑さに耐えかねて予定より早く起きてしまったのだ。

 おかげで澪はあまり寝た気がせず、今もすこし眠かった。

 その一方で浅い眠りのなか見た夢がとても心地よいものだった。

 目が覚めたときにはもっと見ていたかったと澪は思ったくらいだ。

 どんな夢だったかはもう思い出せないのだが。

「ふぁ~~~~」
 
 カバのように大きな欠伸が鏡に映る。

53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 00:59:10.14 ID:wHYMb1YV0 [16/23]
「眠い……」

 眠気を振り払うように首を左右に振ってみるが、当然のように眠気は取れない。

 眠気と戦うことは諦めて、自分の部屋に荷物を取りに行く。

 律へのプレゼントが入っているトートバッグを肩にかけて準備万端。

 一階に下りて、台所にいる母親に、

「ママ、ちょっと律の家に行ってくる」と行き先を告げて家を出た。

 八月も終わりに近づいてきたというのに、外は相も変わらず脳天を灼くような直射日光と蒸した熱気が健在だ。

 そのことが、まだ夏の真っ只中であるということを強く実感させる。

 誕生日会の参加者である唯、紬、梓の三人からは既に家を出たという連絡があった。

 あとは律の家の近くで合流して、乗り込むだけだ。

54 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:00:10.13 ID:wHYMb1YV0 [17/23]
 澪が家を出てから五分ほど経ったころだった。

 計画が順調に進んで安心している澪のところに、トートバッグの中から携帯の着信音が聞こえてきた。

 梓からの電話だった。澪は携帯を素早く耳に当てる。

「もしもし、梓?」

『あ、澪先輩。あの、ちょっと悪い知らせがあって」

「悪い知らせ?」

『はい。実はさっき律先輩が出歩いてるところを見たんです』

「律が?」

『わたしは予定より早く着いたんですけど、たまたま律先輩が歩いてるところを見かけて。あ、律先輩はこっちに気づいてなかったので安心してください』

「そっか……遠出じゃないといいけど」

『服装はラフな感じでしたから遠出はないと思います』

「いや、律はいつもラフな感じだからな……」

『そ、そうですね。あっ、あの、良かったら澪先輩の家に行っていいですか? わたしの横に唯先輩とムギ先輩もいるんですけど、唯先輩が暑さで倒れそうなんです。今変わりますね。……み、澪でゃん、わ、わだしはもうだ……へえ……』

55 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:05:21.53 ID:wHYMb1YV0 [18/23]
 澪の脳裏に干からびた唯の顔が浮かんで、

「ひぃぃぃああっっっー!」

『澪先輩っ!?』

「……いい、いや。なんでもない……じゃあ、律が帰ってくるまでわたしの家で待ってようか。家の場所はわかる?」

『もう澪先輩の家の近くまで来てますし、ムギ先輩もいるので大丈夫だと思います』

「そう、わかった」

『ではまたあとで』

 通話を終了して、大きくため息を吐く。

 律には時間まで指定しとけばよかった、と後悔の念を抱きながら澪は歩いてきた道を引き返すことにした。

56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:10:42.36 ID:wHYMb1YV0 [19/23]
 自宅に戻った澪が母親に友人が来ることを知らせると、

「そうなの~よかったわね~うふふふぅ~」

 出掛ける前より三割増しの、今なら芸能人もビックリの笑顔になっていた。

 なんでこんなに嬉しそうなんだろ? そんな疑問が胸に沸いて、澪は首を傾げる。

「今のうちに少しでも部屋の掃除をしておいたら?」

「あ、うん。そうだね。そうする」

 ま、こんな日もあるか。

 湧き上がった疑問に適当な解釈をして、母親の進言通り部屋の掃除をしようと、澪はリビングを出た。

 階段を上がって、採光窓から差し込む光に照らされた廊下を進み、自分の部屋の前で足を止める。

 ドアノブを掴んで回す。内へ開かれるドア。

 そして目に飛び込んできた光景に、

「っっっ――――――――――――!?」

 澪は声にならない悲鳴をあげて、フリーズした。

57 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:16:07.16 ID:wHYMb1YV0 [20/23]
        ***


 開け放たれたドアの前で澪が口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。

 澪は本気で驚いているんだろうと律は思う。

 本当なら自分は出かけていて、ここにはいないはずなのだ。

 そう、梓の電話は律の考えた作戦で、澪を誘導するためのものだった。

 昨夜のうちに唯と紬、梓の三人には事情を話して協力を取り付けて、今日も澪が家を出る前には集まっていたのだ。

 つまりは逆サプライズ作戦は大成功だった。

59 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:22:05.32 ID:wHYMb1YV0 [21/23]
 律、梓、唯、紬と、横一列に部屋の中央に並び座る四人を前に澪はなかなか動き出さない。

「ん、どしたの澪?」

「……」

 あくまで自然な口調で言ったが、反応はない。

「んしょっ、澪ちゃん! もう朝だよ! 朝ご飯がなくなっちゃうよー!」

 唯に肩を揺さぶられてやっと、

「なななんで律がここにいるんだ!? それにみんなも」

 状況が理解できないのか慌てて疑問を口にする澪。

 少なくとも朝ご飯がなくなることはどうでもいいらしい。

 いや、もうすぐお昼なのだが。

60 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:27:43.91 ID:wHYMb1YV0 [22/23]
「澪ちゃん家の前でたまたま会ったの」と言うのは紬だ。

 実はまだ作戦は続いていた。

 澪がプレゼントの話をし出したら、どっきりだと種明かしをする予定なのだ。

「……だってさっきは」

「電話のあとで会ったの。ね、梓ちゃん」

「え、ああ、はい。電話し終わってすぐに会ったんですけど、それで律先輩も一緒に……」

 紬に同意を求められて梓が慌てて理由を説明する。

「そうなんだ……」

「なんで誘ってくれなかったんだよ。遊ぶならあたしも呼んでくれればいいのにさ。仲間外れはんたーい」

「ご、ごめん。あとで律の家に行こうと思ってたんだけど。ほら、昨日も家に居てって言っただろ」

62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/21(土) 01:33:31.07 ID:wHYMb1YV0 [23/23]
 律の問いかけにもまだ隠し事をし続ける。

 どうやら、まだバレていないと思ってるらしい。

「あ、そういえばそんなこと言ってたっけ」

「まったく、昨日のことなのに忘れてたのか」

「暑さで記憶が飛んだんだよ」

「それはマズいだろ……」

 澪も平常心を取り戻してきたのか、口ぶりが滑らかになってきた。

「そうだ、プリンがあるんだけどみんな食べる?」

「ごっつぁんです!」

「はい! わたしもプリン食べたいです!」

 唯と紬、二人揃ってびしっと挙手をする。

「じゃあ、取りに行ってくるから。もちろん梓と律の分もな」

63 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:38:54.05 ID:wHYMb1YV0
 そう言って澪はプレゼントが入っているであろうトートバッグを置くと、開けたばかりのドアを閉めて部屋を出て行った。

 おそらく澪としてはイレギュラーな事態の中、どのタイミングでプレゼントを渡すか考えに行ったのだろう。

「知ってた、あずにゃん。プリン食べるとプリン体が増えるんだよっ」

「増えませんよ」

「え、増えないの?」

「増えません。プリン体はビールとか飲むと増えるものじゃないですか」

「ええ~、あずにゃんのけちぃ~」

「どうしてわたしがケチになるんですか!
 それと抱きつかないでくださいよぉ~……う~」

「……あづいね……」

「だから言ってるじゃないですか……」


64 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:44:47.23 ID:wHYMb1YV0
「わぁーっ!」

「わっ、む、ムギ先輩までっ……あ、あついれすよ……」

 抱き合う(と言っても唯が一方的に梓に抱きついているのだが)二人に紬も参戦する。

 梓は迷惑そうに言いつつも笑っていたし、唯も紬もあついあついと言っては、声に出して笑っていた。

 重なり合った三人を見ているとこっちまで暑くなってくるが、楽しそうな三人を見るのは悪い気がしない。

 ――そういやエアコンが入ってないのか、どうりで暑いわけだ。


65 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:46:18.99 ID:wHYMb1YV0
 律は立ち上がって勉強机の上に置いてあるリモコンを手に取る。

 が、電源ボタンを探そうとして止めた。

 そのままボタンを押さないでリモコンを机に戻す。

 主に無断で部屋に侵入したあげく、エアコンまで勝手に入れるなんて厚かましいにもほどがあるだろう。

 親しき仲にも礼儀ありなんて諺があるぐらいだ。

 ましてや澪を騙してもいるわけで。

 ここまで思いつきと勢いでやってきたことに律は自分のなかで小さな罪悪感が沸き上がってくるのを感じた。


66 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:48:22.06 ID:wHYMb1YV0
 素直に自分の家で待って、澪の計画に素知らぬ顔で付き合ってあげればよかったな、と今更ながら思えてくる。

 澪はきっと自分のために計画してくれたのだ。

 それなのに、わざわざその厚意をふいにしてしまった。

 やっぱり澪の企みに付き合ってやろう。

 そう決意をして、律は事情を知る唯たちにもそのことを話そうとしたが、ドアの向こう側から足音が聞こえたために話すことはできなかった。

 五キロのお米が入りそうなサイズの青いバケツを手に持って、澪が部屋に入ってきた。


67 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:50:31.96 ID:wHYMb1YV0
「澪……手に持ってるのなんだ?」

「え、ああ、これは……その……バケツプリン?」

 なんで疑問系なんだよ、というつっこみはあえてせずに律はバケツの中を覗き込む。

 中にはたしかにほろ苦そうなキャラメルソースがかかった、卵色をしたプリンが入っていた。

 バケツプリンと聞いて、唯と紬が梓を放り出して寄ってくる。

「おお~、これがバケツプリン……夢にまでみたバケツプリンですか!」

 唯はバケツを奪うと、両手で抱えて頬擦りし出す。


68 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:51:41.01 ID:wHYMb1YV0
「澪ちゃんが作ったの?」と紬。

「ううん、マ、お、お母さんが……」

「バケツで作れるなんてわたし知らなかった。りっちゃんは知ってた?」

「作れることは知ってたけど、見たことはなかったな」

 紬は物珍しいのか、唯と同様に目を輝かせて嬉々した表情でいる。

 そこに梓もやってきて、三人でバケツを取り囲む。

「プリンはプリンでもバケツプリンとはな」

「普通のだと思ってたんだけどさ……わたしも見てびっくりしたよ。そうだ、スプーンを持ってこないと食べられないな。あとお皿も必要か」


69 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:52:45.17 ID:wHYMb1YV0
「澪」

「ん?」

 澪が背中を向けたまま足を止める。

「今日は何月何日でしょう」

 澪は顎を上げ視線を天井に向けて考え事をする仕草をする。

「……八月二十一日だろ」

「ではでは今日はなんの日でしょう」

「ジョー・ストラマーが生まれた日……だな」

 おいおい、ここまでお膳立てしたのに引っ張るのかよ。

 律はその返事についしかめっ面をしてしまう。

70 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:54:00.00 ID:wHYMb1YV0
「ほ、他にもあるだろ。身近なところでさー」

「あったかな」

「はぁ……」

 そらとぼけた発言に対し嘆息する。

 こっちは準備できてるんだぞ、とはもちろん言えなかった。

 ここは澪から言ってもらわなければならないのだ。

「なんてな」

「へっ?」

 流麗な動きで自慢の黒髪を揺らしながら澪は振り向くと、ひっそりと笑みを顔全体に滲ませて言葉を放つ。

「八月二十一日は律の誕生日……だろ?」


71 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:54:46.97 ID:wHYMb1YV0
「やっとおも――」

「りっちゃん誕生日おめでとー!」

「うぉっ!」

 バケツプリンに見入っていたはずの唯が突然抱きついてくる。

「律先輩おめでとうございます」

「りっちゃんおめでとー」

 梓と紬からも祝福される。

「あ、ありがと。おまえは虫みたいに引っ付くな」

 ポイッ! なんて効果音が聞こえてきそうな具合に唯を剥がして放る。

「あ~~~~うっ!」


72 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:56:10.85 ID:wHYMb1YV0
「誕生日おめでとう、律。実はみんなでプレゼントを買ったんだけど」

「澪ちゃん。りっちゃんはしっんむぐっ……」

 律は間一髪で、良からぬことを言いかけた唯の口を塞ぐことに成功する。

 唯たちには自分が考えを改めたことをまだ伝えていなかったので、唯が今みたいな行動をとるのも無理はない。

 それでも、澪の企みに付き合うと決めた手前、自分がすべてを知っていることは伏せなければならない。

 それが自分の新たな企みなのだ。

 紬と梓にはアイコンタクトという少々無茶な方法で方針転換したことを伝えようと、律は気付けと念じながら視線を飛ばした。

 澪がいる前では口頭で伝えることは無理だったからだ。


73 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:57:13.80 ID:wHYMb1YV0
 紬と梓はワールドクラスの察知力を発揮したのか、小さく頷いてくれた。

 それが理解したことを示した頷きであるかどうかは不明だが、律は安心して澪に視線を戻す。

「で、プレゼントがなんだって?」

「えっと、だからプレゼントを買ったんだけど……」

「お、おう! けど、その前にスプーン持ってきたらどうだ? 唯が食べたくてうずうずしてるぞ」

 正確には唯がうずうずしているのは、口を塞がれていたからだ。

「しょうがないな。プレゼントはプリンを食べた後にするか。今取ってくるから」


74 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:58:15.05 ID:wHYMb1YV0
 澪が部屋を出て行くと、ネタバレの危機が無事に去ったことで安堵のため息が出た。

 当然、三人にこちらの作戦の変更を説明するのも忘れない。

 唯はいささか残念がったが、紬と梓は納得してくれた。

 澪が戻ってきてからは律はなにも考えずに楽しむことができた。

 バケツプリンを五人でちまちま食べたり(唯と紬が大半を食べた)、プレゼントの内容に声に出して笑ったり、五人で物真似大会をしたりと最高に楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。


 こうして二つの企みは共に成功したのだ。


75 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 01:59:20.09 ID:wHYMb1YV0
 その日の夜。お風呂から上がった律が部屋でくつろいでると、澪から電話がかかってきた。

「もしもーし」

『律、今平気?』

「げへへ、姉ちゃん。待ちくたびれたぜ!」

『間違えました』

「いや、冗談だって」

『まったく……』

「どうかしたの?」

『律、覚えてる? 初めての』

「初めてのおつかい!」


76 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 02:01:24.02 ID:wHYMb1YV0
『違うっ! わたしの家で初めて誕生日会したときのこと』

「うん? 初めて……ああ大体は覚えてるけど。澪のだろ? それがどうかしたの?」

 細部まで明瞭なわけではないが、編集されたビデオみたいに印象的なシーンだけが切り取られて頭に残っている。

 あれはまだ二人とも小学生のときだった。

『夢を見たんだ。誕生日会の夢』

 その言葉を聞いた瞬間、律の頭の中で記憶が雪崩のように奔流となって流れ、その中で記憶の断片が脳裏に映像となってよぎった。

「あたしも見たかも、夢」

『え?』

「誕生日会かわからないけど、雪が降ってた夢だったと思う」


77 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 02:06:31.01 ID:wHYMb1YV0
『わたしの夢でも雪が降ってた。それと律が頭に雪を乗っけてた。もしかして同じ夢だったりしてな』

「どうだか……でもそうだったら凄いな」

『うん……』

 そこまで話して澪との間に沈黙が訪れる。

 その沈黙は律にとって心地の良いものだった。

 それは相手が澪だからこそ感じられる沈黙だった。

 電話越しに息を吸う音が聞こえて、沈黙の終わりを予見する。

『……誕生日会のこと覚えててよかった』

「忘れないよ」


78 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/08/21(土) 02:07:38.04 ID:wHYMb1YV0
『今日のことは?」

「きっと忘れないな」

『だといいけど』

「夢はすぐ忘れちゃうけどさ、実際に起こったことは簡単には忘れないだろ。それに今年で最後は嫌だしさ」

『じゃあ、また来年だな』

「来年になったら澪のを先にやらないとな」

 その言葉に返事はない。


79 : ◆hVull8uUnA :2010/08/21(土) 02:08:51.79 ID:wHYMb1YV0
「なになに? 嬉しくて言葉が出ないとかぁ?」

『そ、そんなわけないだろ。……そろそろ寝ないと。おやすみ』

「もう寝んの?」

『そろそろ日付が変わるぞ。あとさ…………おめでとう、律』
 
 予想外の言葉。

 改めて言われると、どこかこそばゆい気持ちになって思わず顔も緩んでしまう。

 このやりとりが電話でよかったと律は思った。

「澪」

『ん?』

「ありがと。それと」

 ――おやすみ。


              お  わ  り


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